エルドリッジと生徒たち
開拓使の医師の養成についての方針は、『開拓使事業報告』に明らかである。すなわち、「教師ヲ海外ヨリ招キ医学ヲ函館札幌両所ニ興シ病ヲ療シ生徒ヲ教授シ、中毒救急法ヲ編次シテ動植物シ有毒ヲ示シ、近世医説ヲ著シ、医術ノ開進ヲ諭シ、種痘ヲ施シ、黴毒ヲ検査シ、産科ヲ教授シ、伝染病ヲ予防シ衛生ノ道尽サル所ナシ」と極めて多様であった。そして函館ではここにある通り、外国人医師を迎えて医学教育が行われたのである。開拓使は函館病院の外科医長としてアメリカ人医師エルドリッジを招へいし、明治5年に就任した。開拓使の顧問として招かれたアメリカ農務省長官ケプロンについて東京にいたのだが、「函館病院ノ規則ヲ改正シ了ラハ直ニ札幌ニ赴キ病院造営ノ方法ヲ指画シ速ニ成功アランコトヲ希望ス」との命をうけたのであった。彼は8月に医師の養成のための医学校を函館病院に設けた。すなわち開拓使函館医学校である。生徒には官費生と私費生がいた。「明治六年七月函館市中教育一覧」には官費生として、中沢格、石崎鼎吉、坂本章、槙山淳平、田沢謙、渡辺豊、六角謙吉、坂井訥蔵、馬島直の9名がおり、私費生として村岡格、石井収平、石井定三、小川三省、河内啓通、遊佐泰三郎の6名、それに橋本祐斎と赤城昌英が通学生としてあげられている。講義の内容は、治療学、生理学、外科学、解剖学、薬剤学、産科学及婦人病論などであった。授業は英語であったので、英語の勉強も必要であったし、本多公敏と章克己が通訳をすることもあった(大西泰久編・著『御雇医師エルドリッジの手紙』)。田沢謙、村岡格、赤城昌英などはその後、函館病院の医師として名前をみることができる。なおこの学校は7年のエルドリッジの退任により数年間の中断を免れなかったが、11年2月に深瀬鴻堂外2名を教授として、また医学教授が行われた。『開拓使事業報告』の記載によれば、医学教授仮規則がつくられ、私費生徒の入学および通学を許し、学課は予科と本科の二本立てであった。12年1月28日の「函館新聞」の記事は、前年12月の医学生の試験の結果についてふれているが「函館病院附属仮医学校」という表現が用いられているから、火事で院舎が焼けた後も仮医学校としてあったことがわかる。12年の再度の火事で、一時中断したものか、13年には「九月仮医学所ヲ置キ生徒ヲ教授ス」(『開事』)とある。14年に新築された函館病院は前述のごとく「公立」であったが、そこに医学所が置かれた。同年12月6日付の「函館新聞」に生徒の募集広告がのっている。函館支庁学務課が「翻訳科医学私費生」20名を募集しているのであるが、それまでの仮医学所の時は函館病院が募集をしていたから、おそらく官立から公立になった時、医学所の所轄だけが支庁に変わったのであろう。15年に開拓使が廃止され函館は函館県となったが、「函館県衛生年報」には医学期を4年とし、教師が3名で生徒が9名という数字がのっている。なお生徒は「本県医師養成ノ至要ナル固ヨリ論ヲ須クス、然リト雖トモ経費限リアリテ未タ拡張ノ運ニ至ラス」とあり、授業料も徴収されていないので、いわば「県費生」という待遇を受けていたものと考えられる。