明治15年・19年の流行

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 明治15年のコレラについては『函館県衛生年報』が詳細に記している。5月から10月の間に患者203名、死亡者145名を出した。横浜からの汽船の乗客が発端であったが、コレラに対する有効な防疫体制がまだ確立されていない時期であっただけに船舶検査を行いながらも、水際での防止ができなかったのである。なお避難病院が狭かったため、内務省に願って増築工事を完了させた。こういった費用も含め国庫から支出された、コレラ関連の支出は6100円68銭2厘であった。避難病院の入院患者の入院費等は自弁が原則とはいえ、大部分が貧しい人々であったため、ことごとく官費により支弁されている。

函館消毒所 北大図書館北方資料室蔵

 
 内務省はそれまでいかにも貧弱であった検疫施設を本格的に設置するため、18年に函館をはじめとする主要な港に消毒所を常設しようと、その建設に着手した。そのために来函したのが当時衛生局にいた後藤新平であった。そして台町に後藤の設計になる消毒施設が建設され、翌19年にはその付属避難病院ができ、「函館消毒所」の開設に至ったのである。しかし、いくら立源な施設ができても、患者を発生させる一因となっている上下水道の不備は、大きな問題であって、時の為政者も認識するところであった。
 19年のコレラの流行はすさまじいものがあった。患者1022名、死亡者846名という最悪の年となったのである。そしてその病魔は、最も貧しい人々を襲ったのである。9月9日の「函館新聞」の付録「虎列刺病死者貧民遺族救助金募集ノ檄文」からその様子を引用してみよう。「其罹病者たるや多くは区内の最も細民多き東川西川鶴岡若松の数町にして日々患者数の過半を占むと、此等の人々は大概日雇職工五十集行商の類にして、僅に日々の生活を営む輩なれば衛生予防の方知らざるにあらざるも奈何にせん、家屋狭隘不潔にして加ふるに飲水の不良其他意に任せざること多かる……其生活の柱と頼むべきものを失ひ、日常の生計を営むの方を知らず、或は子を先立たる衰病不具の老人あり、或は父母共に死して飢餓に泣くの小児あり、或は夫死して婦亦た病に臥し或は母死して嬰児の乳を求むる所なく、其他見る所聞く所酸鼻にたへざる」という悲惨なありさまであった。市中にはコレラ用心の行灯がたてられたり、コレラ除けの祈祷師が現れたり、果ては「コレラうつらぬくすり」まで登場した。その一方で、現実的なコレラ予防対策のため、「検疫世話係」が区内各町打組織され、果物類や魚類の販売が監視された。学校は休校になり、函館八幡宮の祭礼も延期された。7月半ばから始まった流行がようやく終息したのは11月に入ってからで、検疫所と避病院も閉鎖となった。このような大きな犠牲をだし、函館の飲料水の問題は誰しもが憂えるところとなった。また19年10月に来函した後藤新平の飲料水と衛生に関する演説も行われ、水道建設の機運は大いに盛り上がった。この年以降のコレラは35年に小規模な流行がみられたが、大事を引き起こすことはなかった。