開拓使の対応

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 北海道の開拓に力を注いでいた開拓使は、5年1月遠隔地へやってきた開拓人夫のために「妓樓ヲ立置公然売女免許仕候心得ニ御座候」(明治5年『開拓使公文鈔録』)と正院へ届け出、薄野に遊里を構えた。開拓使がまさに公娼制度を開拓推進のための手段として取り入れようとしていた矢先に、「解放令」が布達されたのである。開拓使は早速「当使管下ハ新造ノ国郡未開ノ風土人煙稀少曠間寂莫」の地方で、「至臨ノ内地ト一般ノ施行難相成」い現状なので、「地方適宜ノ処分ニ基キ、一時人心繋留ノ為メ、今暫ク此儘ニ被差措候様仕度…尤モ人身売買等ノ諸禁ハ速ニ遵奉候条、娼芸妓解放ノ件ニ限リ、姑ク御寛容ノ御沙汰相成度」として5年11月23日正院へ「右御布告管内布達ノ儀一先ツ見合置候」と芸娼妓解放の延期を申し入れた(「開公」5736)。しかし同月末、正院から「早々施行可有之」との裁可があり、開拓使の申し入れは受け入れられなかった(明治5年「稟裁録」道文蔵)。
 こうして太政官布告が出た5年10月から遅れること4か月後の6年2月に入って、北海道にも芸娼妓の「解放令」が布達されることになった。「解放令」実施にあたっての開拓使の具体的意向、施行方針を表したのが同時に布達された次の「開拓使布達」であった。この布達には「壬申十一月」の年月が記されているが、これは正院から「見送りは認めない」という達が出された関係上付けられた年月であると思われる。
 
今般人身売買ノ禁令別紙ノ通御布告相成、実ニ聖世ノ美典、専ラ自由ノ権ヲ得セシメントナレハ、深ク盛意ヲ奉戴可致、尤当地方ハ遠隔ノ絶域ニ付、一旦解放却テ難渋ノ輩モ可有之、依テ其情実斟酌致候条、当分左ノ通可相心得事
一、年季解放ノ上親族旧故ノ帰頼スル所ナキ者ハ、旧主又ハ財主ニ更ニ致寄寓候不苦事
一、自今後芸妓娼妓等ノ渡世致度者ハ願出次第各人ヘ証印可相渡事、但証印税並渡世期限等ハ追テ可相達事
一、衣食ノ資本或ハ器什座席等旧主又ハ財主ヨリ借用或ハ相持之渡世不苦事、但双方利益分配ノ仕様等ハ追テ可届出事
一、是迄ノ貸借ハ相対和談ノ上年賦返済等ノ方法ヲ以テ情誼ニ不悖様穏便ニ取引可致事
(明治六年「御布告」、明治六年「御達書留」)

 
 この布達で、開拓使は「人身売買ノ禁令」は「聖世ノ美典」として人身売買禁止には賛同の意を表しているが、解放については「当地方ハ遠隔ノ絶域ニ付、一旦解放却テ難渋ノ輩」もいるだろうと消極的で、とりあえず解放はするが「遠隔ノ絶域」という北海道の実情を斟酌し、「心得」として次の4か条を掲げている。まず(1)解放後身を寄せる所が無い者は、旧主や財主の元へ身を寄せてもよい。(2)今後も芸娼妓の営業を希望する者へは出願しだい許可する。(3)営業上での必要品は旧主、財主から借用あるいは相持ちにしてよい。(4)これまでの貸借は相対和談の上、年賦返済など穏便に処理すること。結局開拓使もお金で買われた彼女たちを一旦は解放し「解放令」を実施するが、彼女たちが希望するならということで「自由意志による営業の継続」を認める方針を取ったのである。さらに遠隔地であることを理由に開拓使は、旧主・財主の元に残ることをも認めている。「解放令」の実施に消極的だった開拓使としては当然の対応だったのだろう。