解放後法則

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 さてこれを受けた函館支庁は具体的にどのように対応していったのだろうか。函館市中に、太政官布告、司法省令、「解放令」に関する開拓使布達、それに函館支庁の具体的な施行方針を示した「解放後法則」など一連の布達が達せられたのは、札幌本庁より10日ほど遅れた6年2月14日(札幌本庁は2月5日)だった(明治6年「御布告」)。この遅廷理由について、函館支庁は東京上局宛て「種々着手ノ順序モ有之心ナラス遷延」(明治6年「東京上局文移録」道文蔵)と書き送っているが、開拓使と函館支庁との主張の違いについては後述することにする。
 函館支庁は「解放後法則」で、遊女屋や芸娼妓へ今後のあり方について次のように指導している。まず解放の請書を抱え主と本人連名で提出すること、今後の営業をはっきりと申し出ること、引き続き芸娼妓の営業を願い出た者へは鑑札を渡すこと、引き続き遊女屋を営む者は今後貸座敷と唱えること、貸座敷営業が許可された者は店先へ貸座敷という看板を下げること、蓬莱町・豊川町以外の居住者にも貸座敷営業を許し、帆縫女(私娼)は娼妓と唱えること、芸娼妓は黴(ばい)毒検査を受け、黴毒療養積金として月々2分ずつ納めること、郭の名を廃し町名を唱えることなど、10数項目にわたっている。特に従来私娼と呼ばれていた者に鑑札を渡して娼妓と認めたことや、指定地以外でも営業を認めたことなどが注目される。
 さらに娼妓への「規則」(2月17日)、「貸座敷渡世心得」(2月25日)などが矢継ぎ早に達せられ、2月末までには函館でも新しい形の公娼制度がほぼ確立した。″新しい形″つまり(1)芸娼妓を1つの営業と認めて彼女らの自由意志に任せる。(2)営業希望出願者には取り締まり官庁である函館支庁が鑑札を与えて営業を認可する。(3)営業地を特定しない。(4)貸座敷はあくまでも芸娼妓へ座敷を提供するだけで、座敷を借りてあるいは貸して営業するにあたってのみ両者の間に契約が成立する、ということである。