改正育児取扱規則

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 12年、発起者であり社長であった槙山淳道がその座を降り、町会所がその仕事を引き継いだ。さらに13年育児会社に関する事務を町会所から引き継いだ函館区は、4年来の仮の育児規則を更正し、13年11月「改正育児取扱規則」を制定、戸籍課担当の書記2名を育児総取締兼務とした(「函館県(衛生)」北大蔵)。同規則に従って育児の取り扱い手順を追ってみよう。まず入社対象の乳幼児とは、(1)本籍寄留を問わず貧窮などにより自宅で出産できず仮産室(前述の仮の育済館)で出産した子、(2)棄て子、(3)本籍寄留を問わず娼妓分娩の子らで、養育できない親は窓口となっている戸長を経て区役所の育児総取締へ育児願を提出し、そこで育児と認められた乳幼児の実際の養育は、戸長が選定し病院で乳汁の検査を受けた育児取扱人つまり乳母が、毎月区役所から支給される養育料と夏・冬年2度の衣類下付を受けて行った。また乳母は乳幼児の成長振りをみせる年2回の育児閲覧には付き添って区役所へ出頭しなければならなかった。育児費で賄われるものは養育料・乳母の給料・病気の治療費・葬祭費などで、ほかに幼児が学齢に達した時は、授業料や書籍器械の代金なども育児費で賄われた。また育児の管理をより明確化するため育児籍が新設され、入社した乳幼児は戸籍上は親から全く隔離されて育児籍へ編入された。
 育児会社の実務は区役所が担当したが、経費は以前同様、開拓使からの年額1200円の補助金と貸付金利子、貸家・貸地料および寄付金からなっていた。ところがこの補助金も函館県時代に入ると年額960円に、北海道庁時代には22年度に720円へ、翌23年度には620円へと減額され、23年度を最後に打ち切られてしまった。育児会社の発起人は26年財産を函館区に引き継ぎ区の事業として継続することを希望(河野文庫・明治29年「引継書類」北大蔵)、函館区は入社中の25名前後の子どもたちの養育のこともあり、区会の決議を得て、育児救済事業として引き継ぐことになった。(明治25から29年「区会書類」)。こうして育児会社は解散した。表13-6は育児会社が扱った育児数を表したものである。不景気という当時の経済状況を反映し10年代後半から20年代にかけての入社数の増加がめにつく。
 なお育児救済事業として育児会社を引き継いだ函館区は、26年「育児規則」を規定し、従来同様里子に出して養育する方法をとった。乳幼児たちが施設に収容されて養育されるのは、33年に仲山与七・上田大法・寺井四郎兵衛の3名の発起による函館慈恵院が創設されてからのことだった。
 
 表13-6 育児会社養育人数
 事項

年 
年末現在数
前年越
人 数
新たな
養育数
死 亡
人 員
   明治 4
   5
   6
   7
   8
   9
   10
   11
   12
   13
   14
   15
   16
   17
   18
   19
   20
   21
   22
   23
   24
   25
1
8
10
10
7
8
9
9
11
16
21
21
25
39
36
44
36
27
25
28
18
10
0
5
7
9
7
7
8
7
8
13
14
11
12
18
16
24
17
12
11
13
12
8
1
3
3
1
0
1
1
2
3
3
7
10
13
21
20
20
19
15
14
15
6
2
0
0
5
7
9
7
7
8
7
8
13
14
11
12
18
16
24
17
12
11
13
12
0
1
3
3
1
0
1
1
2
3
3
7
10
13
21
20
20
19
15
14
15
6
0
6
4
2
0
0
2
1
4
7
4
0
3
9
6
13
3
0
2
4
2
1
0
2
2
0
0
2
1
1
1
0
4
5
5
9
5
7
4
0
1
1
1
1
0
1
1
0
0
0
0
2
3
2
1
2
0
3
3
4
3
4
1
1
1
1
0
0
0
1
1
1
1
0
0
0
0
2
0
0
4
6
0
0
0
0
1
0

 『北海道庁第6回統計書』より作成