函館にも芸娼妓のための女紅場が開設された。函館の場合、開設に積極的に動いたのは貸座敷主ではなく、函館支庁つまり官だった。地方庁限りの公娼制度を開始した函館支庁は、6年2月28日、各戸長を通じ芸娼妓の営業を許可したのは「解放令」によって路頭に迷うであろう彼女たちを救うための「不得止ノ権宜」であって、本来的には「不好敷事」なので「一日モ早ク後来一身ノ落着相定、人倫適当ノ道ヲ履ミ候義、専要ノ事ニ候」と芸娼妓の正業への転業を奨励(明治6年「御達書留」)、その奨励は、翌7年8月に布達された娼妓規則の中にも「読書、習字、紡績、裁縫等ノ業ヲ努メ漸次正業ニ遷候様心掛」とうたわれた。こうして転業を奨励している以上、そのための施設である女紅場を一刻も速く設ける必要があったのだが、着手は少々出遅れ気味で、函館にその動きが見え始めたのは8年頃からだった。
8年11月、函館支庁は函館市街に限り解放以来見送りになっていた貸座敷・娼妓・芸妓各営業者への賦金(府県限りで取り立てる諸営業税)賦課についての伺いを出したが、その中で支庁は、その収入を「女工授産場」などの設置資金として町会所で積み立てたい旨をうたった。こうして女紅場設立の動きが始まったのである。早速翌9年3月には女紅場設立委員会を設け、設立に関する諸経費などを計上(「開公」5830)、同年8月廃止となった黴(ばい)毒検査費用の積み金の残金も女紅場設立のための資金の中に組み込まれ(明治9年「町会所金穀出納評議留」道文蔵)、女紅場開設のための財政面の基礎ができあがっていった。つまり女紅場開設に動いたのは官だったが、開設・運営のための資金を工面させられたのはほかならぬ芸娼妓自身だったのである。