伊藤鋳之助
新聞縦覧所が開設され書店魁文社が開店するなど新聞や書籍などの印刷物が市中に出回るようになったころ、函館支庁でその機能を発揮せずに眠っている印刷機械に注目し、それを拝借して印刷業を始めようとした人物がいた。彼は伊藤鋳之助といい、山形の出身で慶応初年箱館に渡り、フランス商人ファーブルのもとで働いていたが問題を起こして横浜で取り調べを受け、明治6年に開拓使引き渡しとなった。再び函館に戻ることになった鋳之助は、意を改めて印刷業を開始するために奔走したのである(『北海道史人名辞典』)。
8年4月、鋳之助をはじめ彼の意見に賛同した大矢佐市それに渡辺熊四郎ら魁文社中の連名で、函館支庁へ「活字版器械拝借願」が提出された。以後の動きを北溟社の明治8年~13年の「諸願届書」(以下「諸願届書」とする)と、明治9、10年「准刻書類」(道文蔵)で追ってみよう。
途中、魁文社は本業が忙しいことを理由に退願したため、大矢佐市と鋳之助は8年11月改めて拝借主大矢佐市・機械運用兼代理伊藤鋳之助・請人石川喜八の連名で「六十日間試験」を条件に、機械の拝借願いを再提出した。添付された見込み書によると、人件費や需要費の支出は、函館支庁管下に配布される布達書類の印刷と隔日1回500部ずつの新聞発刊の収入でまかなえる、というものだった。鋳之助らは半紙など必要用具を準備し職人を集めて許可が降りるのを待ったが、沙汰は無く、翌9年3月に再追願、ついにその月23日「願ノ趣聞届、試験中日数六十日間活版器械貸渡候、付テハ太政官大蔵省本使等当支庁ヨリ発令ノ公布達類ニ限リ、何人ニ寄ラス注文ニ依リ摺出方差許候得共、其他著作物ヲ摺出セントスルトキハ、必出版条例ニ捂迕セサル様屹度可相心得事」(前掲「准刻書類」)と60日間の期限付きで函館支庁の機械拝借の件が許可され、同時に函館支庁発令の布達類に限り印刷が認められたのである。提出された拝借書によると、支庁から借りたものは、活字摺器械一式と付属品、それに3301種類・4万5865文字の活字となっている。早速機械を借りて翌4月13日から試業を開始、5月からは実際に函館支庁布達類の印刷も行なった。
試業を通して印刷業が当地には欠くことのできないものであり、将来性のあるものであることを確信した鋳之助らは、試業期間が終わろうとしていた9年5月26日、函館支庁の機械を払い下げてもらい鋳之助を代表に据えて印刷業を定業として開業したい旨を願い出た。函館支庁も印刷所を開設することは公益を興すことになると同意、試業中と同様の状態で続けることを条件に機械の払い下げを許可した。こうして払い下げを請けた鋳之助らは、達書類の印刷など官の仕事を中心に小規模ながらも2人だけの印刷所「函館活版舎」を開設し営業を開始したのである。