北海の創刊号から主筆として活躍した小野は、22年12月、8か月の短期間だった主筆の座を後任佐瀬精一に譲り上京した。後任の佐瀬は会津の生まれで13年「大阪新報」の記者となり、翌14年同紙が立憲改進党の機関誌となるとその党勢の拡張に努め、16年には同党の機関誌「新潟日日新聞」の主筆、社長となるなど立憲改進党の先鋒者として大いに活躍した人物である(「月旦」明治24年8月2日付『函館新聞』、前掲『関係者略伝』)。政論新聞の記者歴のある佐瀬が主筆になってからの北海は、一段と政党色の濃い言論活動中心の政論新聞(大新聞)となり「地方自治権および参政権獲得の立場から独自の北海道論を展開」(前掲『民権史料集』)する一方、在京の弟佐瀬得三(のち北海の記者となる)が「東京だより」と題して中央の様子を伝えるなど新聞の本分である報道の面にも力を入れた。また23年11月には、帝国議会の開設にあわせ「社会の耳目を以て任する新聞紙の如きも其の責任自から重きを加える」がため紙面改良をおこない1面6段とし字数を増加した。
佐瀬は2年ほど主筆を勤めたが、大阪や東京と違い遠隔の地函館ではやはり張り合いがなかったようで(前掲「憶記録」)、病にかかり24年離函、翌25年療養のかいなく死去した(前掲『関係者略伝』)。
その後「北海道毎日新聞」から熊田宗次郎が、新潟から青木清治郎(青葉山人)が、さらに佐瀬得三が入るなど北海の編集スタッフには美文・健筆家が揃った。また函館新聞の主筆だった真島も一時席をおいた。なお真島の跡を受けた函館新聞主筆上島長久は、真島と同様早稲田の専門学校(現早稲田大学)出身で、「機警俊敏、円転且脱の才人。何事にも圭角なく「北海」のごときもイイ加減にあしらい成るべく争隙を避けていた」(前掲「憶記録」)ということである。
27年頃の北海の主筆が、「大阪新報」の主筆を勤め、埼玉県会議長から25年衆議院議員になり以来当選25回、立憲改進党系代議士として活躍した加藤政之助だった。加藤は北海道の開墾事業に興味を持ち、26年末北海道拓殖組合を組織、自ら創立委員総代となって既に犬養毅らが開墾に着手していた瀬棚郡利別原野の権利を譲り受け開墾事業を開始した。その開墾事業の管理のために函館へ移住、そのかたわら北海の主筆も兼ねたということである(『加藤政之助翁略伝』)。残念ながら加藤が主筆時代の新聞が保存されていないため彼の論説などをみることはできない。