34年8月23日「北海朝日新聞」と改題、紙面構成も2面のトップに論説が入り、時評″眼前口上″にもより力が入るなど、やや政論新聞に近くなった。主筆は青木清治郎、社長川上嘉吉、発行所は北海朝日新聞社で、社屋は翌35年4月末に末広町80へ移転した。この際組織変更があり、嘉吉は社長を辞任し営業・印刷の責任者となり、社長に青木清治郎が就任した。編集人は岩淵吉太郎、のち飯島市太郎(のち函館毎日新聞へ移籍)、阿部小一郎、田中麟(のち函館毎日新聞へ移籍)、栃木密蔵へと代わり、最後は阿部小一郎が再び編集に当たった。当初紙面構成は
蝦夷日報と同じ6段組4面だったが、34年10月1日の500号から6面となった。ただし月曜だけは従来同様4面とし無休刊だったが、翌35年3月から月曜休刊となる。また500号から1部2銭に値上げしたが、35年7月2日から次の改題のために紙面数を再び4面に変更し、1部1銭5厘と値下げしている。
「北海朝日新聞」と社屋
「北海朝日新聞」と社屋
社屋写真は明治35年『函館案内』より、新聞は国会図書館蔵