11月1日から社主になった金田の広告には「拙者儀、今回主人内山吉太氏の所有たりし函館公論社・機械器具活字等備付の儘譲与を受け」(11月3日付「函館公論」)とあり、前身の函館公論社は内山の経営によるものであったことがわかる。恐らく蝦夷日報社から青木清治郎や川上嘉吉らが去った35年末頃、ちょうど国会が解散され36年3月に総選挙が行われ内山が前年の屈辱を果たし衆議院議員に当選した頃に、子飼いの新聞ということで函館公論社の面倒をみたのではないかと思われる。なお内山の議員生活は大正2(1913)年まで続き、37、38年の函館新聞の紙面には、内山の国会報告をはじめ内山のサガレン経営論などが連載されている。
こうして20年代に政党と関わった新聞は、30年代に入り道内でも国政選挙が行われるようになると、今度は当然なことではあるが、より具体的な立候補者個人との関わりを持つ面も出てきたのである。
最後に明治期の新聞関係の系統図(図13-1)を載せておく。
図13-1 函館の新聞事情 -明治40年頃まで-