函館新聞

1453 ~ 1454 / 1505ページ
 36年11月11日函館公論は「函館新聞」と改題した(紙上では天長節を祝して11月3日から暫定的に函館新聞の題字を採用)。函館新聞は7段組6面で、函館公論の紙面構成と大差はない。料金据え置きで月極め25銭。改題時の印刷人は古沢信太、編集人小宮山重義、主筆菅原精(~36年11月末まで、翌37年2月26日再入社~6月29日退社、後任不明)で、編集および事務の顧問に元東京中央新聞の編集長だった明石鴻南(36年12月27日一身上の都合で辞任)を迎えている。また新たに金田実八郎を社主とした。金田は越後の大庄屋である内山吉太の実家の3男で、30年来函、叔父内山吉太の経営に参与し(『北海道人名辞書』)、社主に就任当時は内山吉太サガレン漁業部の主任だった。
 11月1日から社主になった金田の広告には「拙者儀、今回主人内山吉太氏の所有たりし函館公論社・機械器具活字等備付の儘譲与を受け」(11月3日付「函館公論」)とあり、前身の函館公論社は内山の経営によるものであったことがわかる。恐らく蝦夷日報社から青木清治郎や川上嘉吉らが去った35年末頃、ちょうど国会が解散され36年3月に総選挙が行われ内山が前年の屈辱を果たし衆議院議員に当選した頃に、子飼いの新聞ということで函館公論社の面倒をみたのではないかと思われる。なお内山の議員生活は大正2(1913)年まで続き、37、38年の函館新聞の紙面には、内山の国会報告をはじめ内山のサガレン経営論などが連載されている。
 こうして20年代に政党と関わった新聞は、30年代に入り道内でも国政選挙が行われるようになると、今度は当然なことではあるが、より具体的な立候補者個人との関わりを持つ面も出てきたのである。
 最後に明治期の新聞関係の系統図(図13-1)を載せておく。

図13-1 函館の新聞事情 -明治40年頃まで-