解散に至る経緯

1469 ~ 1470 / 1505ページ
 明治19年に開拓使は廃止となり、翌20年4月、思齊会の創立以来その運営に深く関わってきた村尾元長が北海道庁の記録課長として札幌へ転出することになった。そのため、思齊会は指導的立場にあった中心人物を失って会を維持していくことが困難な状態に陥り、遂には会の組織を解散することが検討されるまでになってしまった。
 思齊会では、その善後策として所有する書籍類をすべて函館区へ寄贈し、いずれ区有の書籍館を作って経営してもらうよう請願した。それに対して20年6月、二木彦七区長は前年度の学校付属書庫建築費積立金として計上してあった400円を基金とし、それに協議費繰越金から620円を支出して加え、合計1020円の工費で、富岡町7番地の町会所敷地内に函館区共有書籍庫を建築する旨を区会に諮って可決され、書籍館設立の実現に向けて第一歩をふみだした。次いで7月17日、思齊会は町会所で最後の総会を開き、所有する書籍と金円および縦覧所の備品一切を函館区共有書籍庫へ寄付すること、思齊会を解散すること、会の組織と維持に関して功績のあった人達を顕彰することなどを決議した(明治20年7月19日付「函新」)。こうして、書籍約900部、金100円を函館区共有書籍庫へ寄付することにし、創立以来の幹事、議員、書記などの功労者(村尾元長、蛯子興太郎、井川武策、大沢和之、井深基、石田良助、吉田義方、渋谷金次郎、小貰庸徳、伊藤鋳之助、種勘七)へ記念品を贈呈して実質的に思齊会は解散した。ちなみに、この時表彰された人物のうち、函館新聞社の伊藤鋳之助と函館新聞売捌所経営の種勘七を除くすべてが官吏であった。