水産陳列場
明治14年、開拓使東京出張所構内にあった仮博物場が廃止されることになり、収蔵する陳列品は札幌と函館及び上野の博物館に下付されることになった。翌年開拓使は廃止となり、函館仮博物場も函館県に引き継がれたが、東京から送付の物品を収容、陳列するため、明治16年に博物場第二館の建築が計画され、既設の博物場に近接する場所へ31坪余の建物が8月竣工し、1年後の8月11日開場式が挙行された。この第二館には、千島及びカムチャツカなど北方民族の衣類、漁具、生活用具など民俗関係資料ほか400点余りが展示された。その後19年、博物場は北海道庁へ移管され、さらに22年、道庁の水産課長伊藤一隆が来函した折りに実地調査の結果、第二館脇の空き地へ水産物の標本や漁業関係資料を展示する水産陳列場を新設することになり、翌年4月に竣工した。
ところで、函館博物場第二館は庁立函館商業学校が商品陳列所として使用したい旨を道庁へ請願していたので、23年末に許可されて管理を委託されることになり、次いで25年には、博物場第一館も共に同校の付属施設として商品陳列所となった。その商品標本は北海道の物産と移出入品であり、第一館を移入部、第二館を移出部に分類整理して一般にも公開された。しかし、新設の水産陳列場は24年9月の暴風で大破して閉館となり、その後建物を修理して再び開館していたが、28年、庁立函館商業学校の商品陳列所2棟と共に道庁より函館区に払い下げられて、3館とも区有となり、水産陳列場第一館、第二館、第三館と改称された。
さらに、33年12月の区会で水産陳列場第三館の廃止が決定し、場内の物品を他の2館へ移して廃館となったのである。ちなみに、廃館となったこの第三館は、その後解体され、函館女子高等小学校の増築用資材の一部として転用された(自明治27年至明治36年1月「決議書綴」)。
なお、前述の書籍館は入館者不振(明治24年1月から12月までの入館者は259人)が原因で閉館に至ったのに比べ、博物場の縦覧人は多く、同年の9月に例をとれば、1か月で1490人にもなり、その他に外国人も56人の見学者があった(明治24年10月1日「函新」)。