ウラジオ艦隊の第2回攻撃

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 ウラジオ艦隊の津軽海峡方面への出動は、同37年7月下旬にもみられ、7月20日同海峡に侵入したロシア艦隊はそのまま太平洋に抜け、同30日、反転して再び津軽海峡を通過し日本海に入った。この間、日本側の汽船・帆船を攻撃しているが、これにより「(函館港に)碇中の船舶は悉く出航を停止せられ、又郵船会社其他の海運業者は、一昨日来夫れ夫れ関係者へ当港へ向け出帆の船舶に対し出航見合せ方を打電したる由なれは、之れが為め当港商界は非常なる大打撃を蒙り、売買取引は二、三種の商品を除きては殆んど絶無と云ふも可なる」(明治37年7月23日付「函館新聞」)事態となっている。
 このように、ロシア艦隊の2度に及ぶ津軽海峡方面への攻撃は、北海道が本州等とは分断された島部であることを、あらためて確認させることとなった。日露戦争も終結に近づいた翌38年の夏、函館商業会議所が実施した「時局の函館産業界に及ぼせる影響」調査(『函館商業会議所月報』第30号)によれば、「交通」の項において次のように記されている。
 
御用船の徴発は、其後間もなく外国船其他を以て補給されたるが故に船舶の欠乏甚しく感せさりしも、折々敵艦の来襲出没は或は東西航路の停止となり、又は航路の変調を余儀なくせられ、就中甚しき打撃を蒙りしは、日々内地と本道との連絡上欠く可からさる函青間航路に変態を来せしことにして、次て函室間航路の停止其他一般に警戒恐怖の念は、延て商業界並に交通上に及せし影響は蓋し少々にあらさるべし。