徴兵検査と戦没者

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 さて、最後にこの日露戦争期における函館区の徴兵検査状況について触れておこう。先に紹介した函館商業会議所の調査においても、「開戦以来生産界より壮丁の奪はれたるもの尠なからざる」ことが指摘されているが、その実態は表13-20の如くであった。この表にみられるように、現役兵、補充兵のいづれにおいても、開戦と共にその徴集等は次第に上昇している。また、「他徴募区ヨリ寄留」して徴兵検査を受けた者は表13-21のようになっている。同表において明治39年の指数が著しく高いのは、「戦勝ノ結果樺太ノ一部我領土ニ帰セシヲ以テ、同嶋ニ渡航ノ便利ナル当区ニ集合シ、身体検査ヲ受了ト同時ニ同嶋ニ出稼セントノ目的ヨリ当区ニ於テ寄留受検ノ手続ヲナシ、受検シタルモノアリシ為メ」(自明治38年10月至明治39年9月『函館区事務報告』)である。
 前掲の「日誌」によれば、開戦直後の37年3月15日、「潜カニ露領ニ出漁ノ準備ヲ為スモノアルヲ伝聞シ、時局ノ形勢ニ鑑ミス濫ニ出漁シ、延テ国家ノ大事ヲ誤ルカ如キコトアランヲ恐レ、其筋ヨリ相当指揮アルマテ出漁スベカラサル旨ヲ公示シタリ」とあるが、こうした漁民の行為は、終戦後の寄留受検者の急増と共に、底辺に生きる庶民のしたたかさを示すものであったといえよう。そして、日露戦争後急速に発展する露領漁業を、その末端において支えていたのも、こうした人々であったのである。
 また、この日露戦争による函館区出身者の戦没状況をみると、陸軍85名、海軍3名の計88名である(『函館市史』統計史料編)。この内、陸軍関係戦没者をその月別に示せば表13-22のようになる。明治37年-48名、同38年-36名、同39年-1名となっているが、みられるように37年の場合は同年11、12月で全体の54パーセントにあたる46名が犠牲となっている。翌38年では、同年3月に同じく全体の約30パーセントにあたる26名が犠牲となっている。これらの戦没者は、いうまでもなくロシア軍の死守する族順要塞の二〇三高地をめぐる攻防戦と、奉天会戦という日露陸戦史における2つの激戦の中で斃れた人々である。
 このように、函館区の戦没者数の変遷からも、日露戦争の大きな流れを窺うことができるのである。
 
 表13-20 函館区の徴兵検査状況
 区分

年次 
壮  丁
徴  集
B/A×100
C/A×100
D/A×100
20歳
20歳以上
計A
現役B
補充C
計D
 明治34
   35
   36
   37
   38
   39
368
554
449
522
519
532
37
489
488
383
486
249
405
1,043
937
905
1,005
781
66
74
80
79
95
110
99
129
45
217
276
174
165
203
225
296
371
284
16.3
7.1
8.5
8.7
9.5
14.1
24.4
12.4
15.5
24.0
27.5
22.3
40.7
19.5
24.0
32.7
36.9
36.4

 各年度版『函館区事務報告』より作成
 ・「壮丁」人員は受検者数を示す
 ・明治34年の20歳以上の壮丁数は、やや疑問がある
 ・明治36年の補充兵145名の内、第一補充兵は47名、第二補充兵は98名
 
 表13-21 寄留受検者数
年 次
受検者
指 数
明治34
35
36
37
38
39
361
405
333
379
398
477
100
112
92
105
110
132

 各年度版『函館区事務報告』より
 
 表13-22 陸軍の戦没者
年 次
戦没者
比 率
明治37. 8
9
10
11
12
2


31
15
2.4
 
 
36.5
17.6
明治38. 1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
1

26

1
4


1
1
2
1.2
 
30.6
 
1.2
4.7
 
 
1.2
1.2
2.4
明治39. 5
1
1.2
合 計
85
100.0

 『函館市史』統計史料編より作成