前掲の「日誌」によれば、開戦直後の37年3月15日、「潜カニ露領ニ出漁ノ準備ヲ為スモノアルヲ伝聞シ、時局ノ形勢ニ鑑ミス濫ニ出漁シ、延テ国家ノ大事ヲ誤ルカ如キコトアランヲ恐レ、其筋ヨリ相当指揮アルマテ出漁スベカラサル旨ヲ公示シタリ」とあるが、こうした漁民の行為は、終戦後の寄留受検者の急増と共に、底辺に生きる庶民のしたたかさを示すものであったといえよう。そして、日露戦争後急速に発展する露領漁業を、その末端において支えていたのも、こうした人々であったのである。
また、この日露戦争による函館区出身者の戦没状況をみると、陸軍85名、海軍3名の計88名である(『函館市史』統計史料編)。この内、陸軍関係戦没者をその月別に示せば表13-22のようになる。明治37年-48名、同38年-36名、同39年-1名となっているが、みられるように37年の場合は同年11、12月で全体の54パーセントにあたる46名が犠牲となっている。翌38年では、同年3月に同じく全体の約30パーセントにあたる26名が犠牲となっている。これらの戦没者は、いうまでもなくロシア軍の死守する族順要塞の二〇三高地をめぐる攻防戦と、奉天会戦という日露陸戦史における2つの激戦の中で斃れた人々である。
このように、函館区の戦没者数の変遷からも、日露戦争の大きな流れを窺うことができるのである。
表13-20 函館区の徴兵検査状況
区分 \ 年次 | 壮 丁 | 徴 集 | B/A×100 | C/A×100 | D/A×100 | ||||
20歳 | 20歳以上 | 計A | 現役B | 補充C | 計D | ||||
明治34 35 36 37 38 39 | 368 554 449 522 519 532 | 37 489 488 383 486 249 | 405 1,043 937 905 1,005 781 | 66 74 80 79 95 110 | 99 129 45 217 276 174 | 165 203 225 296 371 284 | 16.3 7.1 8.5 8.7 9.5 14.1 | 24.4 12.4 15.5 24.0 27.5 22.3 | 40.7 19.5 24.0 32.7 36.9 36.4 |
各年度版『函館区事務報告』より作成
・「壮丁」人員は受検者数を示す
・明治34年の20歳以上の壮丁数は、やや疑問がある
・明治36年の補充兵145名の内、第一補充兵は47名、第二補充兵は98名
表13-21 寄留受検者数
年 次 | 受検者 | 指 数 |
明治34 35 36 37 38 39 | 361 405 333 379 398 477 | 100 112 92 105 110 132 |
各年度版『函館区事務報告』より
表13-22 陸軍の戦没者
年 次 | 戦没者 | 比 率 |
明治37. 8 9 10 11 12 | 2 - - 31 15 | 2.4 36.5 17.6 |
明治38. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 | 1 - 26 - 1 4 - - 1 1 2 | 1.2 30.6 1.2 4.7 1.2 1.2 2.4 |
明治39. 5 | 1 | 1.2 |
合 計 | 85 | 100.0 |
『函館市史』統計史料編より作成