管玉

44 ~ 45 / 1205ページ

西桔梗B2遺跡墓壙出土管玉 「西桔梗」より

 副葬品の中で注目されたのは管玉である。管玉は縄文時代の終りから弥生時代、古墳時代にも装飾品として用いられているが、その材質や形状、加工方法によって製作年代や生産地がわかる。七点の管玉(碧(へき)玉質管玉)は、緑色塩基性岩で母材が共通しているが、これと同じ岩質のものはいまだ北海道では発見されていない。長さ二三・七ミリメートルから一九・三ミリメートル、径が六・四ミリメートルから四・二ミリメートルの大きさで管状になっており、管の中央部に管軸と直交する三ないし一・八ミリメートルの穴が貫通している。表面はみがかれて光沢があるが、この面をよく観察すると、多角柱状で、一一面から一三面に面取りしたようになっている。管玉の研究家である前記の寺村教授は、西桔梗のこの管玉を調査して、北海道、青森、岩手、宮城、福島各県などにおける研究例から「現在北海道における最も確実な弥生時代文物の最初のもの」とした。
 碧玉質の管玉は、阿武隈川から仙台平野、北上川、津軽平野を経由して、下北半島から渡島半島に渡来したようである。碧玉質管玉の製作は特定集団の中の高度な生産技術を持つ、専門的な工人によってなされたのであろう。まず材質の碧玉を入手するためにはかなりの苦労を伴ったことが予想され、更にその加工工程で細い管状製品に二ミリメートルほどの細い穴を貫通させることは容易でなかった。西桔梗の管玉も両面から穿孔(せんこう)してあるが、これは細い竹ヒゴなどを工具としてあけたものだと言われている。みがき上げた管玉を数個つないで首飾りにしたが、これを使用した人物は、集団社会においてかなり高い階層の特定の人に限定されたであろうし、出土例が示すように、特定集団がいた所でしか発見されていない。この碧玉質管玉の所有者であった続縄文人は、かなりの経済力と他に見られない集団勢力を保持していたことがうかがわれる。
 このあと西桔梗において最終的に生活したのはいかなる人であったのであろう。
 西桔梗B2遺跡で生活が営まれたあと、およそ五百年ほど経た続縄文時代中期後半の時代である。このころは本州では古墳時代となっていた。
 古墳時代中期には、前方後円墳といった大規模な墳墓の造営が行われた。中でも仁徳天皇陵は世界最大の規模を誇り、全長一キロメートルに及ぶ陪塚(ばいちょう)を伴い、三重の堀と土塁が巡らされ、埴輪が埋設された。人工の築山や堀と巨大な前方後円墳の築営は、あらかじめ用意された設計図と大がかりな土木工事を伴ったばかりでなく、副葬された装飾品にも高度な文物が見いだされている。このころは階級社会ができて、身分が決められ、専門職の工人が現われた。更に、水田という農業生産基盤の上に豪族も誕生し、やがてこの社会構造と文化が西日本から東日本に勢力を拡大して行った。
 宮城県南部の仙台平野には遠見塚古墳と呼んでいる前方後円墳がある。古墳時代中期の勢力が関東地方から東北地方に及んで、この前方後円墳を築いたのであるが、東北地方北部や北海道には前方後円墳は築造されなかった。