『東北太平記』に、
諸国の兵集北部并中津川七郎右衛門帰降之事
却説、蛎崎蔵人信純は南方の両将を語らい、殊に十ケ年以前より金銀を夥しく与えて召抱、北洲亀田の城に密に隠せし諸国の浪人及猶八方を招き、三千五百六十二人、御旗本六百八人、合せて四千百七十人、外五月上旬より六月中旬迄津々浦々に馳集、和漢の兵こそ夥しけれ(中略)
一 蔵人十ケ年前より北洲カンメテ〔今云亀田〕切開と号、召抱候諸国浪人及去々年より相集る兵三千五百六十弐人、都合六千二人、馬数九百五十疋相揃
とあり、右の文中の十ケ年前というのは同書の他の記述から文安三(一四四六)年ころと推定されるが、このころ亀田のことを「北洲カンメテ」と呼び、それ以後に亀田といわれるようになったようであり、同書によれば、蛎崎五郎は亀田に一城を構えたことがあるとも記されている。
『東北太平記』は別名『北部御陣日記』ともいわれ、室町時代から江戸時代の文化文政ころまでの間に記されたと考えられており、記述内容があまり大げさ過ぎることから、史実として扱うにはやや問題があるが、ある程度の事実を物語風に書いたものと思われる。同書の記すように「カンメテ」から「亀田」に変化したものであろうか。