榎本軍、官軍ともに「赤川村山手台場」とか「赤川山上台場」「赤川台場」と呼んでいる。
明治二年四月二十九日、榎本軍は海岸線の戦闘で矢不来の陣を破られ、もう一つの陣である内陸部大野二股の陣を撤退せざるを得なくなったが、『衝鋒隊戦史』は当時の様子を次のように記している。
「大川正二郎の率ゆる伝習歩兵三箇小隊を先鋒となし、今井信郎衝鋒隊二箇中隊を率て殿軍となり、瀧川充太郎の率ゆる伝習士官隊一箇中隊を以て中軍となし、古屋佐久左衛門、土方歳三等を擁護して夜の八時頃より徐々に退却を初め、一と先づ一の渡村に駐て各隊の諸将と協議の上、赤川神山の地点に陣を構へて副防禦を設け守備する事となれり。」また、同書五月十一日の記事中に「此日衝鋒隊は赤川の胸壁に朝来奮闘力戦せる甲斐ありて」とある。台場の位置は、はっきりしないが、明治二年四月末から五月初めにかけて短期間に築塁されたもののように推定される。