渡島地方では維新前より稲作が行われていたが、品種改良や稲作技術がいまだ発達していなかったためその作柄は不安定であり、凶作の続いた天保時代(一八三〇~一八四三)などは水田耕作が細々と行われるか、又は水田を利用して稗(ひえ)を植えるような状態も見られた。その後明治の世となり、明治二年七月開拓使が設置されたが、開拓使は顧問のケプロン、教師のアンチセルなどが、米作よりも畑作が有利であるとの説をとったことや、前代に比較的気候温暖な渡島地方ですらあまり米作が振わないこともあって、米作を北海道農業の中心にすえることに不安を持っており、最初はあまり積極的に取り組まなかった。
しかし、数年後、消極的であった開拓使も、開拓上どうしても米作が必要であることをさとり、明治八年、気候条件に恵まれている七重勧業試験場において水稲試作を開始した。
『開拓使事業報告・第三編 物産』によれば
「(明治八年)稲ハ地方従来播種スト雖モ慶応年間凶歉(キョウケン)ニ遇ヒ殆ト種子ヲ絶テリ爾後廃スル者多シ因テ水田ヲ春季耕鋤シ六月上旬下種シ六月下旬挿秧(ソウオウ)セシニ頗善ク暢茂シ十月中旬収穫ス是ニ於テ其風土ニ適スルヲ確認ス」とある。