園田牧場の概況

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 『北海之農友三巻九号 台覧箇所概況』―明治四十四年―には、園田牧場について次のように記している。
 
     一 位置
   園田牧場は渡島国亀田郡亀田村大字桔梗村に在り函館区を北に距ること僅に二里強なり
     二 牧場地積
  水田地 二拾三町八反三畝六歩     私道路地 壱町壱反三畝二拾一歩
  畑 地 百五拾八町七反三畝歩     総反別  六百四拾壱町四反三畝拾四歩(六畝 九歩)
  郡村宅地 二町五反二畝二拾五歩
  山林地 八拾九町壱反五畝四歩
  放牧地 三百六拾六町八畝拾参歩
     三 種畜
  種牡馬(しゅぼば) サラブレッド種 ペルセロン種及アングロアラブ種にして四頭あり
  種牡牛 ヱーシヤ種及ホルスタインフリーシヤ種にして四頭あり
  種牡羊 メリーイ種にして二頭あり
  種牡豚 ヨークシャーア種にして二頭あり
     四 現在家畜
  馬匹(ばひづ) サラブレッド種 アラブ種 アングロアラブ種 ペルセロン種及其他雑種にして七十五頭
  畜牛  ホルスタイン種 エシア種及其他雑種にして百七頭
  羊   メリノ種 シャンハイメリノ種及雑種にして六十頭
  豚   ヨークシャー種にして三十八頭
  家禽  バフォーピングトン 白色レグホン 黄斑及白色プリマスロック 黒色ミノルカ がちょう (エンプテン種)七面鳥其他にして二百三十八羽
 
(注)園田實徳は開道五十周年(大正七年八月)を記念して、開拓功労者として道庁長官から表彰された。その表彰功績記録は大要左のとおりである。
   嘉永元年十二月二十日鹿児島下荒田町に藩士彦左衛門の長子と生まれ、幼時から機敏にして大度があり、明治四年近衛兵軍曹となり五年六月開拓使に出仕し、七年佐賀の役、十年西南の役に従軍して功を積み賞金百二十円を賜わった。十年軍務を退き開拓使属となったが、職を辞して渋沢栄一らと開拓使付属船を借り北海道共同運輸会社を創設して函館支店長となった。在職中畜産改善の必要を感じ二十年三月七飯種畜場桔梗野牧場の貸下を得て牧畜事業を開始した。二十三年全地域の払下を受け総地積七百八十町歩、内牧場三百四十四町歩となり、水利に富むところである。二十七年米国より牧草蔬菜類の種子を輸入して飼料の改良を図った。最初は短角種牝牛、雑種牝馬、内国種牝馬の払下を受け、ついで外国種輸入改良を目的とし、牛は英米国より馬はアラブ種サラブレッド種を輸入して蕃殖用にした。北海道庁より貸下又は払下を受けた乳用種牛、種馬も入れて鋭意改良に努めたので二十四年末には全部の改善を見るようになった。二十年以来函館区内に牛乳販売所を設け日々搾乳販売もし、又水田二五町八反余歩畑三二町歩は小作人に耕作させた。
   畜産改良に力を尽したのみならず二十一年森岡昌純らと北海道炭礦鉄道株式会社を設立し理事となり、二十五年北海道セメント株式会社を創設し、二十八年函館電燈所を創立主宰、参十九年中野武営らと共同し函館水電株式会社を興して社長に就任、四十四年三井物産合名会社より漁場を買収して漁業を経営するなど企業経営の才に長じ徳望があった。また衆議院議員(大正三年)にも当選した。四十二年勲五等、大正四年従五位に敍せられ、六年二月十八日七十歳にして病死した。