その後の札幌本道

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 馬車通行が可能な道路として完成された札幌本道は、明治七年海岸町、明治九年亀田村などにおいて小修理が行われたが、その後あまり手入れがなされず、次第にいたみがひどくなり、雨の日など通行人は両わきにある松の根元をわらじを履いてようやく歩くような状況となった。
 明治十一年五月七日の『函館新聞』は当時の状況と改良計画について次のように記している。
 
  先年中莫大の五(御)入費で函館より森村までの道路を普請され二、三年前までは実に好い道路であったが、其の後に自然手入もなければ追々と悪くなり春秋には、殊の外ぬかりて馬車の通行にも難儀なれば、此度又函館海岸町より七重村勧業課試験場前まで四里三丁の間を普請さるの由にて其の建築の方は両側を小柴にて柵を結ひ道路は西洋の築造法にならひ大石の尤も堅き質をえらびて之を細に割砕て赤土に砂をまぜて搗固める旨向のよし。
 
 しかしこれは計画だけに終ったらしく、その後このような道路状況を見かねた函館、亀田地方の有志は自費による修理を官に願い出、許可されている。
 明治十三年十一月二十八日付『函館新聞』によれば、函館の金子利吉は、海岸町若松橋より亀田村境までの道路が馬車、人力車共に通行難儀となったので、修繕をその筋へ出願し、許可を受けたと記している。
 また、『明治十六年亀田郡役所伺届録』によれば、金子利吉は再び自費をもって道路を補修した。「札幌本道即チ亀田村ヨリ桔梗ニ至ル道筋(丁数壱里三丁)殊ノ外毀損行人及ヒ牛馬車共困難ナルヲ見テ自費修繕ノ義願出テ、本年(十五年)五月第四百六十四号ヲ以テ御允可相成候処今般落成ノ旨本人ヨリ届出候。」
 すなわち開拓使により明治十一年若松町・桔梗間の修理計画が立てられたが、多分実施できなかったものであろう。前記のごとく海岸町若松橋付近から桔梗までの道路を金子利吉が二か年に分けて修理の奉仕をしているのである。
 その後右の『伺届録』によれば、佐野定七は「明治十六年十月中、札幌本道中亀田橋ヨリ万年橋マテノ間大ニ破壊シ、人馬通行甚ダ困難ナルヲ憂ヒ、資金七拾三円六十銭ヲ抛チ、長九拾間幅二間ヲ修繕」とあり、このほかにも民間人の協力により函館・桔梗間は何度も修繕された。比較的函館に近く、手入れが行われた部分でさえこのような有様であり、七飯、峠下、森方面の山間部などではかなりの損耗があったものと思われる。