(一) 鍛冶村の二孝女の表彰
教化政策を具体的な姿で示したものは、例えば鍛冶村の二孝女の表彰である。このことによって村人は孝行の大切さについて、教えを受けたことと思う。二孝女のことは、羽太安論の『休明光記』巻六に詳記している。鍛冶村に清次郎(八九才)妻ひさ(七二才)婿養子勘之丞(六五才)清次郎娘勘之丞妻りう(五〇才)、勘之丞娘きわ(一六才)の一家の物語である。一家が貧しく、勘之丞は病身、りうときわの一生けんめいな働きによって、生計をようやく維持し、孝養に尽すことは誠に感心の至りということで、文化三年伊豆守信明から褒美(二女に銀十枚、清次郎夫妻に生涯扶持)を受け、村中はもとより、上山村、亀田村からもお祝いに来訪したことなどを詳述している。このことは『北海道婦女善行録』(大正六年庁立札幌函館小樽旭川高等女学校校友会編集発行)にも『休明光記』から転載されている。また、その子孫小柳家は左記のように明治になってからも表彰された。
(二) 北海道志及び新聞記事 「明治十一年四月十二日、亀田村の民近藤岩衛門の男音吉の孝を賞して金三円を賜う。明治十三年二月十三日、鍛冶村の民小柳善右衛門家貧し善く父母に事(つか)う三十年孝養怠らず官賞して金三円を賜う。」(北海道志)
「明治十一年、亀田村の畑沢源次郎孝行により金一円五十銭の褒賞を受けた。」「賞賜、亀田村平民田原松九郎に開拓使より褒美を頂戴、嘉永年中分家已来親睦専ら農事に勉れり候段他の鑑とも相成り奇特の事に候依て賞として金二円下さった。」(明治十四年十一月三十日) (以上函館毎日新聞)
亀田村、鍛冶村に孝行の故をもって、表彰あるいは褒賞を受けたことにより、社会的に良い影響を与えたと思う。『休明光記』巻六にはその証明として、鍛冶村における非行少年が二孝女の感化によって、行状を改めたことが記されている。すなわち善行表彰によって、社会教育の推進が行われた。