鍛冶学校の誕生

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 (一) 明治十年前後の民情
 村民の大方はあまり教育の必要を感じなかったが、公職にある者、あるいは有志と言われる一部には学問がなかったため、意志表明や書類の構成上に遺憾な点のあることを嘆いていた。村の集会には度々寺子屋の拡張、他町村の学校(当時は函館に宝学校開校)の情況などに思いを寄せ語り合っていたという。このような意見の所有者の子弟の多くは村書記の宅に集まって、読書算術の教えを受けていた。村書記は村内唯一のいわゆる「目明き」であり、村人は実印まで書記に托して公私一切のことを処理させていた。
 
 (二) 村書記(当時書き役といっていた)
 鍛冶村には遠藤利三郎(後柏谷利三郎と改姓)が在住、同氏は庄内の武士の宅に弟子入りして読書算術あるいは精神講話を受け、風采学識共にすぐれ、一般よりの尊敬が厚く、此の地方きっての人物であったため、神山方面からも学ぶ者が少なくなかった。神山村には谷口八十吉(後越田と改姓)が在住、同氏は秋田の人の宅において、読書算術の教えを受け、寺子屋を開いて子弟の教育に当ったことは、前述の通りである。中道には菊地某が書記を勤め、弟子をわずかながら教えたという。
 
 (三) 学校の設置
 明治十三年四月、亀田郡役所より書記素木真龍が鍛冶神山に出張して、「学制発布の由来より学校設置の必要」を説いた。村中の寄り合いは村書記の家に開かれ、はじめは議論が一致しなかったが、ようやく理解するところとなり、ついに設置の議が決定した。開校当時の状況を『開拓使事業報告』は次のように記録している。「明治十三年、村民五五名が金三九一円を分担し、村社稲荷神社の旧殿を修理の上、仮校舎とした。四月開業して鍛冶学校と称した。変則小学科を教えることになった。五月、字赤地官地二二万坪、字蓬揃九三、七五〇坪、字蕨野一万坪を付属地とし、七月教則を修正した。翌十四年四月、七重勧業試験場より桑苗一、〇五〇株を賜わり、蕨野に栽培した。五月教員休息所を新築、その費用九九円は維持方の金を貸し、加息法を設けた。」

開校当時一覧(開拓使事業報告)


開校当時一覧

 
 (四) 開校当時の大要
 開始は明治十三年四月二十三日であり、職員は和田芳平(十三年四月から十五年十月まで勤務)一人であった。十七年九月十日、新校舎が落成した。場所は横山多三郎裏手で、校地一〇〇坪、教室二〇坪、佐々木平司校長時代のことである。学校世話係(学事功労者)は水島順作、水島徳左衛門、柏谷富蔵、佐藤又吉の四人で学校発展のため尽力した。
 
 (五) 編制のうつりかわり

編成のうつりかわり