(一) 学校創設当時の事情 明治十一年には亀田学校、十三年には鍛冶学校、神山学校、赤川学校がそれぞれ開校したが、桔梗村はまだ学校建設の機運が熟していなかった。桔梗村は安政六(一八五九)年、東本願寺が箱館奉行に願い出て、この地の開拓を企て、越前、加賀、能登の農民を移したところである。
明治十五年五月二十二日、亀田郡書記素木真龍が郡長広田千秋の命を受け、桔梗村へ出張して、桔梗村総代中沢伝助、松本兵七、田中半兵衛外三人及び石川村総代高松次郎左衛門、徳田忠之、西谷津右衛門外三人を桔梗村外三か村戸長役場へ呼び出し、桔梗石川両村が連合して一校を設立するよう説得した。戸長清水清益も共にその必要を説明したので、両村の代表者は連合して一校を創設し同年七月に開業の式を挙げることを決定し、受書を素木書記に提出した。
同年七月五日、戸長清水清益が桔梗村総代及び石川村総代を戸長役場へ呼び出し、前記の約束について協議したが、石川村においてはまだその議を決定できず、結論を持ち越すことになった。
同年九月二十六日、石川村総代高松次郎左衛門、輪嶋又七を亀田郡役所に呼び出し、過日の受書について、その実行を求められたが、総代は村内の力が不足の故を以て設立の期を延期してほしい旨を申し出たため、桔梗村一か村において学校を開設することに決定し、桔梗村総代川井三之丞、松本兵七及び村内有志田中半兵衛、杉本甚右衛門、中沢伝助らがその具体策について協議した。
同年十月二十五日、五十嵐治太郎小学四等准訓導が桔梗学校在勤を命ぜられ、十一月八日鍛冶学校へ転任し、十一月十日、上村正夫小学五等准訓導がその後任となった。
同年十月二十八日、郡長広田千秋、郡書記素木真龍、亀田郡受持訓導川島元盈ら郡内を巡回して大中山村に至り、桔梗村総代を呼び出し、学校開設の期日を協議した結果、十一月十二日に開業の式を挙げることに決定した。
同年十月三十日、桔梗学校設立伺書を差し出し、亀田郡役所を経て函館県庁に進達した。
(二) 学校の位置 桔梗村三番地 下斗米音八家屋借用
(三) 経費概額 一か月 金一二円七〇銭 内訳 教員給料、書籍、借家料、薪炭油、雑費 収入概額 一か月 一三円四〇銭 内訳 生徒授業料、村内集金、有志寄付金
(四) 学校世話係及び学務委員 十一月三日、桔梗村の村人一同を戸長役場へ呼び出し、学務委員二名学校世話係三名を選挙させることになり、学務委員には田中半兵衛、松本兵七、学校世話係には杉本甚右衛門、中沢伝助、佐々木為右衛門が決定した。
(五) 開業式 十一月十二日午前十時、開業式には郡長広田千秋、函館県属原直次郎、同御用係大場宗明、郡書記素木真龍、函館師範学校教諭井上小四郎、郡受持訓導川島元盈外戸長及び教員、学務委員、学校世話係、村総代、村内父兄らが出席して、十二名の生徒の就学並びに学校設立を祝福した。
(六) 校舎の建築 村人は子どもたちのために本格的な校舎を建築することになり、明治十六年十一月三日、桔梗村十六番地に新築移転した。十八年八月八日付の新聞は桔梗村杉本甚右衛門が十六年十一月、桔梗小学校敷地として、地所百坪寄付したる段、奇特につき賞状を下賜されたことを報じている。
三十年には桔梗村十一番地に一町七反余の土地を買い求め、間口九間、奥行五間の校舎を新築した。十一月三日の移転式には郡長代理や戸長、四村の訓導、学務委員、村総代その他有志が出席して盛大であった。学校建築に当って村民一〇八名が三五一円を寄付した。校舍は桧造りで一面ペンキを塗り、人々の注目を浴びたという。
その後、児童数増加のため、三十八年十一月、一教室及び事務室、更に四十三年十月、一教室をそれぞれ増築した。
(七) 教育の実情 ア 温習生の教育については、明治二十一年七月十四日、亀田外八か村戸長役場部内各学校の大試業並びに奨励を行い、本校温習生二名二期生四名及第とあり、桔梗学校の沿革誌だけに温習生の記録が残っている。
『北海道教育史地方編一』においては、これを補習教育のおこりとして記述している。補習科は二十八年九月に正式に置かれた。イ 植樹については明治二十九年頃より四月二十五日を樹栽日と定め、熱心に植樹した。ウ 保健教育の実施において、明治三十九年、桔梗小学校において小林医師の努力により、トラホームの治療が行われた。同年十月における同校のトラホーム患者は在籍生徒数一一四名中六七名(内一四名重症)に及び、教師も医師と協力して洗眼に当った。十一月には患者五六名、十二月になっても変らなかったが、翌四十年に至ってようやく減少するようになった。このように保健教育の実践に当ったことは、衛生思想の乏しかった当時の実情を物語るものである。