亀田小学校
函館区に編入地域の字八幡社後手に設置していた亀田小学校は、当然函館区の小学校となり、亀田村は小学校を失う結果となった。児童教育は挙げて函館区に委託することにしていた。亀田村に学校を有しないまま、二年余、時の戸長佐野義正が大いにこれを憂い、小学校設立を計画し、区・郡部の共同所有地の寄付を求めて、百方苦心の結果、ついに目的を達し、其の地の立木を売却した金を銀行貯金とし、まさに工事に着手せんとしたが他へ転任することになった。
後任戸長大滝信孝も前任者の意を継ぎ、熱心に計画したが、設計上改める必要を認め、且つ予算におおよそ七百円の不足を生じたため、若干の時日を経過して、明治三十四年四月一日に至り、始めて新設の許可を得た。同年四月六日、新築の認可を受けて起工、費用金一、一〇〇円、建築請負人は函館区若松町の浜岡某で、場所は現在のところであるが、当時は亀田村字三角五〇番地と称していた。従って三角学校なる別名が生まれたものと思う。八月下旬、教室三、職員室一、屋内体操場(六間に七間)の校舎が落成して、九月二日生徒募集と同時に授業を開始した。
これより前、四月一日信太延之助が本校訓導に任命され、六月一日同訓導が初代校長を兼任した。開校式は九月二十二日、教育勅語謄本を拝戴し、児童約六〇人と村民数一〇名と共に、新しい出発をした。