明治二十七年二月勅令第十五号「消防組規則」が発布になり、これを受けて五月北海道庁令第二十九号「消防組施行細則及び消防組施行細則取扱手続」が定められ、従来の私設消防又は町村別小範囲の消防組織は北海道全体の消防組織にまとめられた。亀田村においても以前各村ごとに消防組が組織され、互いに協力体制にあったが、これによって亀田地域各村を統合し、公立亀田村消防組を組織し、この制度は以後明治、大正、昭和の三十六年間にわたって続けられた。なお明治三十四年四月、亀田村の一部を当時の函館区に編入したが、これに伴い亀田消防組の一部を函館消防組に編入し、函館消防組第六部として新たな出発をした。
明治三十八年における亀田村消防組の実勢は、腕用ポンプ三台を購入し、消防夫七〇名で三部制をとり、一部を桔梗、二部を鍛冶、三部を赤川地域として分担、初代組頭に寺島紋太郎が就任した。明治四十三年三月の亀田村消防組の実態は、ドイツ式腕用ポンプ一台を購入し、一部の支所を本町に設け、消防夫定員を七〇名より一〇九名に増員し、消防器具置場四か所(桔梗、鍛冶、赤川、本町)、火の見梯子八基(前記器具置場に二基ずつ)、腕用ポンプ四台という規模であった。