米作付面積と収穫高

329 ~ 333 / 1205ページ
 亀田村では、粳米と糯米の両方を生産していたが、米価は、大正五年粳米一石一五円、糯米一石一七円と糯米の方が単価は高い。しかし、大正・昭和前期を通して、糯米の作付面積は粳米の約一〇%からせいぜい一一%を占めるだけであった。各年の米の作付面積と収穫高は、次のとおりである。

米の作付面積と収獲高

 明治後半から大正にかけて、道内では米の新種が次々と作られた。
 今まで植付けられていた稲の中から優良株を選出育成した篤農家も多く、また、農業試験場において純系陶汰と交配育種により、新種が登場することとなった。
 昭和十年ころ、道南地方で人気のあった品種は、粳米では津軽坊主一号、南早稲、万太郎、近成、糯米では渡島糯、黒糯、井越糯などであった。
 亀田村では昭和十一年、十二年には、次の品種が植付けられていた。

米の品種

 粳米の中で、南早稲が他を大きく引きはなして連続トップであり、渡島地方でもこのころ最も長い間首位の座を占めていた。
 この品種は、明治四十五年、大野村の南市太郎(明治十五年生)か、その父菊松がつくり出したものとされており、稲熱病に強く、寒冷に耐える力を持っている品種である。
 昭和十一年から十五年までの南早稲の作付面積と、粳米全体に対する南早稲の割合は次のとおりである。
 
 昭和十一年 二、八五〇反(六一%)  十二年 三、四一七反(七三%)
   十三年 三、二八九反(七〇%)  十四年 三、七四〇反(七〇%)
   十五年 三、一七七反(六五%)
 
 米の品種(昭和十三年-昭和十七年)
 昭和十二年以後も新種がもちこまれたり、在来種がすたれていったので、米の品種の興亡もめまぐるしいものがある。

米の品種と作付面積(昭和十三年-昭和十八年)