先にも述べたように亀田村は米作一本やりではなく、馬鈴薯、とうもろこし、粟、稗、麦などの雑穀などを作っていたし、馬鈴薯の裏作として大根をはじめ、かぶ、白菜、そばなども栽培していたので、ひとたび凶作になれば食べるよりもとにかくそれらの収穫物を少しでも多く売ることに努めた。
そのため自家用にする食糧は売れないようないたんだもの、半ぱなもの、あまつさえ家畜の飼料まで食用に回すこともあったので、飼料不足のために馬が栄養失調になり、翌春、充分に農作業に耐えることのできないこともあった。
農民たちはくずいもを煮て食べたり、澱粉と交換したり、粟を精白して粟もちをつくったり、稗や大麦を精白してごはんの中に混ぜて食べたりした。その他鶏を飼育したり、農会で留萌、増毛方面から箱詰めの生にしんを共同購入したので、それを身欠(みがき)にしたり、ぬかづけにしたりして栄養のバランスをとった。
食糧不足に加えて更に頭の痛かったのは小作料(年貢)の納入であった。ひとりの地主から土地を借りていた小作人はわずか数人だったので団体交渉もできず、地主のいいなりになったことが多かった。
小作料の不払いのため小作地を取りあげられてしまう心配もあったので、なんとかして払おうとしたが、所せん無い袖はふれないということで、ようやく年貢を半分にしてもらうこともあった。
地主の中には「年貢は年貢として払え。困っているならそれを生活のために一時貸す。」という血も涙もない者もいた。
収穫が思うようにない上に小作料も払わなければならなかったので、わずかばかりの自作地を持っていた農民は、その土地を担保に借金をした。しかし、高利のためにそれを払えず、やがて土地を手放す者が続出した。となりの七飯村のように小作争議こそ起こさなかったが、食糧はすべて自給自足、はきものもわらで作ったり、衣類も質素なもので我慢した。ただ、病気になって不要な出費をしないようにひたすら気をつけながら、不安な暮らしを続けていかなければならなかった。