昭和十二年七月十三日から十九日にかけて合計一五七・八ミリの豪雨によって、西桔梗一帯が水害を受けた。
損害は馬鈴薯畑五〇反が収穫皆無、一五〇反が二割から五割の減収、合計二〇〇反、金額にして三、七五〇円である。
この時の稲作の被害は記録にはないが、そのかげには次のような美談があった。『北海道行政』(昭和十三年四月号)に亀田村西桔梗の小堀幸市の懸賞文が掲載されているので、当時の水害防止の様子を紹介すると、「七月中旬頃の出来事です。午前二時頃、東の空もかすかに白みかかった頃、突然、夜警班長より伝令、『二番水門附近の堤防が切れて、田が流される。全員は非常招集に応ぜよ。終わり。』当番の会員は至急伝令に忙がしい。『すわ一大事』会員及び村民は総動員で現場にかけつけた。もし防ぐ事が出来なければ三〇町歩の水田作付の終わった苦労も水の泡だ。
雨上りの空は静かに晴れて、ところどころに雲が飛び散っている。ごうごうと渦巻く水流は切れた堤防から田に滝の如く流れ落ち、土煙を上げ、砂を吹上げてざっと広がっていく。そのたびに水位は段々高くなって稲の頭もはや見えなくなりそうだ。
人々は夢中になって応急防水に務めた。土俵を造り土を盛って、くいを打つ。がいく度やっても流されてしまう。そうして二、三時間たった。人々はもうだいぶ疲れている。なかなか止まりそうにみえない。
苦心に苦心を重ね、互いに励まし合って午前六時頃ようやく喰い止めることができた。皆はほっと安心して疲れを休めて居た。そうして休んでいる時、五、六間下流の向側の堤防が斜面にどっと切れ崩れ、ざっと音響を立てて押されてしまった。『それ。』はじかれた様に一斉に立ち上がって向側に渡ろうとした。何分に流れが早いのに幅はせまいが深いため渡りかねている。それに自分等の村には何等関係のない所なのだ。
でも危険を冒してようよう渡って今は疲れも忘れ、一生懸命防水に務めた。
だが先よりは場所が悪いのと材料のないため仕事がはかどらない。前よりは二倍の苦労をして幾分止まったが、また下からやぶれて折角の苦心も水の泡となってしまった。
睡眠不足に空腹のため、今はもう力が弱り切って再び立上る元気もない。『やめよう、外のところを苦労してする必要もあるまい。』『そうだ飯を喰って出直そう。』
暫らく沈黙が続いた。十分、二十分。『いや、やろう、今止めなければ外のところとは言いながら四、五十町歩が水漬けになるのだ。何も国のためではないか。』『やろう。』
固い決心で青年会員はまた立上がった。皆も一生懸命に始めた。しばらくして苦心に苦心を重ねて、さしもの水を防ぐ事が出来た。時は午前八時半過ぎであった。朝食も取らず働いた皆は、その場から動けぬ者もあった。
頭からずぶぬれのもの、手や顔に数か所の傷を受けている者も四、五名はみえた。だが、『これも御国のため、又、お互い同志だ。』『あゝよい事をした。』と互に喜び合っていた。おう、かくも共同精神に富んだ村人よ、そうして相互扶助を念頭に社会奉仕を真剣に行った村人及び青年会員こそ誠に模範とすべきでしょう。
向う側の人々は後でどんなに感謝したことでしょう。四、五十町歩の水害はこうした働きで未然に防がれたのだ。今はすくすくと伸びて実を結び、あの時を物語っているかの様に見えます。因みにこの村こそ亀田村西桔梗で十五、六軒からなる小部落(三軒家)であります。」(原文のまま、一部抜粋)