小作料

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 大正四年の小作料を例にとれば、一反当り物納の場合 (玄米)、上田六斗、中田四斗、下田二斗、金納の場合は上田五円、中田三円、下田一円であった。平均するとこのような数字であるが、その年によっていくらかの上下があった。この統計の五年後の大正九年には、上田、中田の玄米六斗、四斗はそのままながら、下田が一斗上がって三斗になっている。
 翌大正十年には中田だけが一斗上がって、五斗、つまり、上・中・下は六斗・五斗・三斗の順になった。この小作料は昭和に入ってもほとんど変わらず、上田六斗、中田五斗である。一方、畑地の方は、上畑が一円上がって六円、中・下畑はそのままの三円、一円であった。
 しかし、昭和十七年には上畑十五円前後、中畑五円-七円、下畑一円五十銭-二円五十銭とかなり値上がりした。このころの稲作の反当収量は三俵からよくて三俵半であり、年貢は四斗から六斗だったので、三俵収穫があれば半分は小作料にとられたのである。亀田の地主は蔵を建て、函館の地主は土蔵を建てたといわれたのはこうした背景があったからである。
 だが、小作料も各地区によってかなりの差がみられる。たとえば、同じ二等地の畑でも、東山地区 七円五〇銭-三円五〇銭、鍛治地区 一五円-七円と、鍛治地区の方が二倍の金額になっている。これは、交通の便の良し悪しもさることながら土質の良いことが原因である。
 鍛治・神山地区は亀田川が運んできた肥沃(ひよく)な赤土に覆われて、良質の赤かぶ、ごほう、にんじん、ほうれん草などの野菜が取れる。それに比べて東山・陣川地区は開墾によって開かれたところであり、土質は黒土である。つまり土質が良いところは小作料も高かったわけである。しかし、個々の小作料は相場に応じて地主と小作人の間で個人的に決定されていたようであり、昭和十七年の東山地区における四等地の畑の小作料を例にとると、一反歩当り(ア)一円五〇銭、(イ)二円、(ウ)二円五〇銭、(エ)三円五〇銭となっており、最高額と最低額の差が実に二円にもなっている。次の表は、同じ昭和十七年の各地区の小作料の例である。(※は最も多い平均値)

[小作料]

 なお、刈分と称して、収穫物を地主と小作人で四分・六分や五分・五分に分配するという方法も、ごくまれであったが存在した。これは米に限られていたようであるが、鍛治地区で刈分五分、中道地区で刈分四分という例がみられる。小作料の支払い場所は地主宅か地主の事務所である。そこまでの運搬賃は小作人の負担であった。年貢や小作料を払わなければ、翌年また田畑を貸してもらえないので、地主のいいなりにならなければならなかった。地主の中には、高い年貢をとって気の毒だと思ったのか、年貢を納めに行くと酒を飲ませてくれる者もいたという。