明治十九年一月北海道庁制となり、七重勧業試験場を廃して、改めて七重種畜場を開設したが、これも経費の節減や官制の改革によって規模を縮少することになり、桔梗野牧場は次第に顧みられなくなった。ここに至り、園田実徳は本道畜産業の前途を憂慮し、独力で経営しようと思い、貸下を申請し、明治二十年三月許可を得て、園田牧場と改称し、牧畜の業を始めた。牛馬は七重種畜場から払下げを受け、また新たに本道各地から購入したものと、自家所有のものを合わせても牛二〇頭、馬一九頭にしか過ぎなかったが、明治二十三年に七万余円を投じて種畜牛馬を輸入した。
ポルトガルのバボルナ牧場から純血アラブ種牡(ぼ)馬「ザリーフ号」を入れ、また乳牛、豚をオランダ、イギリスから輸入して、設備の充実、飼養の改善をはかるなど経営に努力した結果、年々その数を増して成績も向上するに至った。
明治三十五年二級町村制が施行されて、園田牧場の料地は現在の道費河川蒜沢川を境に、北側は七飯村大川地区として三〇〇町歩、南側は亀田村桔梗地区として約三四一町歩に区分された。
明治四十四年大正天皇がまだ皇太子であった時に本道視察の際、園田牧場にまで足をはこばれ、優秀な牛馬をご覧になった。その時、皇太子が自ら乗馬一頭を所望されたので、場主園田実徳は恐悦し、内国産洋種第八セント号を献納した。「二十五年ノ久キ克苦碎心以テ今日ノ盛況ヲ致ス、尚益々奮励セヨ」と激励され、家族一同拜謁を許され、ご紋章付き銀盃一個と白縮緬一疋を賜った。
畑地は家畜飼料生産の目的をもって農作物を栽培し、その面積は一八四町五畝二五歩で、残りの畑地三二町一反歩余と水田の全部は附近の小作人に耕作させた。彼は小作人に対しては畜牛の繁殖飼育を奨励したり、会員の親睦を密にするために慈愛組合を組織させたり、耕作上に必要な資金を要する場合には月一分の利息金で貸与したりして小作人の生活の安定を計った。
園田は綿羊が農家の副業として適すると考え、試験用に雌雄八頭を青森県野辺地雲雀牧場から購入して繁殖に努力してきたが、漸次その成績が良好になったのでますます力を傾注した。羊毛は一頭平均四・八キログラムから五・七キログラムぐらいとれ、それを東京府下千住製絨(じゅう)所へ販売した。また、園田牧場で生産された牛、馬、羊は年々各地へ販売された。
園田牧場所有 牛馬頭数(大正六年末)
搾取乳は朝夕二回、鉄道便で桔梗駅から函館駅へ輸送、函館市東雲町二四二番地にあった函館園田牧場販売所で蒸気殺菌して函館市内に配達販売した。
園田牧場が北海道の畜産振興にいかに貢献したかを物語る一例として次の話がある。
釧路に在住して馬の改良育成においては、全国的に有名な神八三郎翁の畜産牧場であるが、その原種馬は園田牧場から送られたものであったという。
園田実徳は、大正七年開道五十周年記念博覧会開催に際し、道庁長官より拓殖功労者として表彰された。また、昭和四年にも、その後牧場の管理人となった武彦七ともども、北海道畜産組合連合会より、「開拓使牧場ヲ継承シテ其改良ニ努メ率先シテ種畜ヲ海外ヨリ輸入シ主トシテ牛馬ノ純粹蕃殖ヲ図リ以テ本道畜産ニ貢献セラル其功績顕著ナリ」「永ク園田牧場経営ノ任ニ膺(アタ)リ牛馬ノ改良発達ニ努メ同志ト共ニ畜産調査会設立ヲ提唱シ之ガ委員トシテ力ヲ本道畜産政策ノ樹立ニ致ス其功績顕著ナリ」として、それぞれ表彰を受けた。