国道

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 明治五年につくられた国道は、大正時代には国道四二号線と呼ばれていたが、軟弱な路床に砂利を敷き、道路の両端に赤松を植えたものであったため長雨のあとや、春先の雪解け時期にはひざまでぬかる悪路と化した。中でも桔梗から昭和方面にかけては下り勾配になっていたので、昭和から五稜郭駅前方面にかけての道路が特に悪かった。この悪路の原因の一つには野菜や肥料(人糞)を満載した金輪馬車があげられる。一日に数百台の荷馬車が通るため、道路の破損が著しく、人々は国道の端のかたいところを馬車から降りて歩いたし、馬は馬で本能的に前の馬が歩いた路面のかたそうなところを選んで歩いたという。
 しかし、車輪が深い穴に落ちてしまうと、馬の力だけでは簡単に動かなくなることもしばしばあった。そうした場合は馬車追いと呼ばれる御者が、まず手綱の端で馬をたたくのが普通であった。それでも動かなければ、両側に植えてある松の枝を折って馬をたたいたり、松が枯死したあとに植えたイタヤの枝を折ってムチのかわりにもした。ある者は松の木を切って馬車を上げるのに使ったり、馬をたたきすぎてけがをさせてしまったり、あきらめて荷車を放棄して馬だけを連れ帰ったという話も残っている。そのため特に道路の悪かった昭和からガス会社方面にかけての国道の松は、年々その数を減らしていった。

国道五号線(大正年間)

 このような状況から、村民たちは自発的に国道の修繕に協力していた。場所柄桔梗地区と石川野(昭和)地区の住民は、春と秋の二回、川砂利を採取し、馬車に積んで国道まで運び、路面の穴埋めを行った。この作業の中心になったのは桔梗の西田惣三郎、藤谷栄吉、佐々木又次郎、石川野の佐々木多七、小笠原今朝松、田原仙太郎、石神定吉、櫻田浅蔵らで、部落民を督励し、自らも道路改修の先頭に立って働いた。この功績が認められて桔梗、石川野両部落は大正三年と四年に、北海道庁長官より賞状と金一封が贈られた。
 大正十年には大がかりな国道改修工事が始められた。この契機となったのは国道、海岸町通りの改修工事が一時、亀田橋で中止されることになったことである。当時の小野村長の呼びかけによって、村会議員および有力者などが協議会を開き、亀田村道路修繕委員会を設置して道庁に交渉した結果、道が二、〇〇〇円を支出し、残り二、〇〇〇円は亀田村および七飯、大野など関係町村で負担することになった。これによって、亀田橋から五稜郭駅前までの国道の修繕工事が行われたのである。