昭和十六年の統計によると、亀田村道の路線数は六四線であり、主要道路の延長距離は八万四、九四六・四六メートル、主要橋梁の延長は二八・一八メートルであった。昭和十六年の土木費予算と工事の主な内容は次のとおりである。
村費 六、七二〇円 道費 七二円 寄付金 一三二円 合計 六、九二四円
予算の内訳は、橋梁新築改築費 四六五円四三銭 橋梁修繕費 二八七円六〇銭 道路修繕費 五、九六八円四〇銭 その他 一八七円八四銭 合計 六、九〇九円二七銭である。
土木工事としては、港橋架換、中道・鍛冶村通線暗渠新設、神山橋、赤川通石川線砂利敷、石川野大谷地線砂利敷、鍛治村通神山線砂利敷、赤川桔梗線砂利敷、桔梗上磯線砂利敷、中道鍛治通線盛土及測溝、神山横通線測溝、田家三角線砂利敷の各工事であった。
大正十五年九月十七日付の函館毎日新聞に「亀田村内に公共橋」という見出しで次の様な記事が載っている。
「亀田村内の道路は降雨ごとに車馬の往来が激しいので泥濘脛を没する悪路となるので、先年人道が設けられたが村内亀田川には亀田橋が車道にある外人道の両側には橋がないため、悪路には困難を極め、又夜間などは歩道に川のあるのを知らず墜落するものなどあるため村内有志福田佐一郎、小川勇松の両氏が発起人となり附近二十余名と協し、醵金して歩道の両側に架橋し、公共橋と名づけたが、往来の人々は大いに喜んでいる。」