桔梗・昭和地区の電燈

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 桔梗・昭和地区に電燈がついたのは、大正十年十月六日のことであるが、この約一〇年前から桔梗・石川野(現昭和)それに隣りの大中山村の村民は電燈の架設を希望して、再三函館水電会社と交渉していた。
 しかし、当時電燈をつける場合は、各家庭から申込料一円を徴集するだけで各施設は会社が負担し、最初は電球のはてまで貸付けであったので、一燈付けるのに十数円を要した。それにメーターもなく、一燈ずつの料金を徴集したので、大まかにいえば電柱一本につき最低三燈付かなければ採算がとれなかった。そのため会社が重い腰をあげて工事に着手したのは、大正十年八月上旬のことであった。
 電線は五稜郭駅前から桔梗駅まで、国道五号線に沿って電柱を立てて引いた。困ったことに国道には赤松並木があり、悠々と枝を広げていたため、どうしてもじゃまになるところは切り払って電線を張った。あとで道庁からおしかりを受けてえらい目にあったという。このような工事に村民も協力を惜しまなかったので工事は意外にはかどり、同年十月六日から各家庭に送電することができた。
 三か村で電燈を架設したのは三五〇戸で、その数約六〇〇燈であった。たいていの家庭では一燈か二燈で、室内のコードを長くして電球をとなりの部屋に持ち歩いた。電燈がつくまでは石油ランプの生活であったから明るい電燈がついたときは、人々はいずれも歓喜に満ちたという。桔梗・昭和地区に送られた電気は、大沼水力発電所や亀田火力発電所でつくられ、函館から送電したものである。
 喜びにわきたつ村民は当日午後三時より桔梗の園田牧場に二〇〇余名も集まり、盛大に祝った。落成祝賀式では佐々木祝賀副会長の開会の辞、岩崎会長の式辞、小野亀田村長、伊藤水電庶務主任、山口園田牧場会計諸氏の祝辞があり、村民を代表して佐々木勇作の答辞、佐々木副会長の閉会の辞があって式は終わり、芝生の上に並べられたテーブルを囲んで演芸会に移り、手踊り、追分節などの余興が演ぜられ、暮色せまるころまで盛大な祝宴が続いた。