神山・鍛冶・赤川地区の電燈

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 神山・鍛冶・赤川地区に電燈がついたのは、桔梗地区に遅れること二年、大正十二年八月であった。この地区が桔梗・昭和地区より遅れたのは、五稜郭駅前から鍛神小学校までの間に人家があまりなく、函館水電の採算が合わなかったためである。
 電燈設置の計画は大正十一年村民有志の会合で立てられ、函館水電会社と折衝すること数十回におよび、ついに会社は十二年六月工事に着工し、同八月に竣工した。点燈戸数は三村合わせて三三七戸であった。
 工事に関しては電柱三四七本分の代金三、一〇三円(一本約九円弱)、その他工事費および延長線代が二、八八七円、合計五、九九〇円を要した。これに対して各燈火需要者から五六一円、それに赤川村の寄付一、一〇〇円、神山村七五四円鍛冶村一、三〇九円、赤川通り一八〇円、同本通り一五〇円、合計三、四九三円と亀田村の拠出金などによってまかなった。
 点燈された当日のことについては、故丸山金次郎の記録ノートに「大正十二年八月十二日神山部落に初めて電燈つく、部落民は手をたたいて喜んだ。道路ばたの電柱には一本おきに外燈をつけ、夜歩きも便利になった。」とそのうれしさが記されている。
 この点燈を祝って翌大正十三年八月十七日、鍛神小学校において亀田村電燈点火祝賀会が開催された。参会者は一〇〇余名で、招待客は関崎支庁長、岡本水電専務、伊藤同庶務主任、加藤銭亀沢村長や新聞記者など十数名であった。祝賀会委員はこれら来賓を馬車数台で五稜郭停留所まで出迎え会場まで運んだ。
 式は小野祝賀会委員長(村長)の挨拶のあと次の一六名の功労者に感謝状が贈られた。
 
田原 栄作   越田 竹蔵   高田石太郎
木村徳太郎   池田 次郎   横田 与平
鈴木 寅吉   増川朝一郎   池田音右衛門  永田 弥助
荒川三太郎   伊藤 弁吉   名和徳兵衛   永田 仙吉
小熊 亀蔵   水島玉太郎
 
 ついで越田副委員長の工事経過報告、関崎支庁長、岡本水電専務、新聞記者を代表して毎日新聞の高桑記者の祝辞、鈴木村民代表の答辞などで式を終わって、祝宴に入り、盛会のうちに午後三時半過ぎ散会した。
 電燈がついて生活は便利になったが、水電会社の係員が巡回の時には、農民からいやがらせを受けた。それは田や畑に電柱を立てたためであり、特に一〇本に一本の割りで安定用の支線を張ったので、電柱のまわりの田畑は馬耕もできず農作業のじゃまになった。水電会社は独占事業であったので、たまたまこのようなトラブルも起ったようである。後に電柱を畦(あぜ)道に移したり、支線を取り除くために、二本の電柱を継ぎ足して深く埋め直したり、電柱の根元に十文字の角材を入れたりして農民との関係改善をはかった。