町村状況報告

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 この資料は大正五年より昭和初年に至る間、二冊の書類綴として保存されているが、渡島支庁長に対して、毎年町村の状況(町村の沿革、戸口、民有地、基本財産、生産物、輸出入の物資、住民の職業および生活状況、社寺および宗教家、公共団体、教育、土木など)を一定の様式に従って詳細に報告したものである。ここではその中の学校教育調査表を次に掲げて説明する。
 
学校教育調査表(大正五年を中心として)
区 分学 校 名通 学 区 域校舎及位置通学区域の状況
学校の種類

校舎位置及
通学区域

の状況
亀田尋常高等
小学校
大字亀田村の内
中道・鍛冶村道を
除き全部
教室五、坪数九六坪
屋内体操場五〇坪
廊下五九坪
教員住宅三、其他八四坪
通学区域=適当と認む
位置 大字亀田村字三角五〇番地
鍛神尋常
小学校
大字亀田村字中通
鍛冶村通
大字神山村、鍛冶村
教室五、坪数九六坪
屋内体操場四〇坪
廊下及住宅二、其他百三一坪
位置 大字亀田村字中道五の二
通学区域=適当なり
桔梗尋常
小学校
大字桔梗村
大字石川村
大字亀田村字石川野
の一部
教室四、坪教七六坪
廊下及住宅二、其他九三坪
教室四の内一 一六坪、
現今屋内体操場充用す
位置 大字桔梗村字桔梗野九の四
通学区域は適当と認められる
赤川尋常
小学校
大字赤川村教室三、坪数四二坪
屋内体操場三〇坪
廊下及教員住宅二、其他計五一坪
位置 大字赤川村字山下二百六十九番の二
通学区域は適当と認む
鍛神農業
補習学校
鍛神尋常小学校内に置き、
毎年十月より翌年三月迄教授す


教員の配置


学齢児童就学不就学及児童通学の状況


授業料徴収状況


教育費負担の状況


就学督励 教員養成 学校衛生の状況・学校医及学務委員服務の状況


亀田村教育会監査事項(大正五年十二月)

 以上の表によって、次の事項を知ることができる。
 
 ア 学校の規模が四小学校共に小さく、亀田小学校だけが高等科を併置していたので、全村から入学するため、赤川、鍛冶、神山、桔梗方面の遠距離通学となり、高等科の女子は極端に少なく、尋常科で卒業するのが普通であった。
 施設設備もみるべきものはなく、当時は普通教室が優先して、特別教室のようなものは考えられなかった。屋内体操場も狭く天井の低いものであった。
 
 イ 教員は学級数と同数である。時には欠員の場合があり、校長は兼任で訓導兼校長という辞令であり、給与は村の負担であった。一学級の児童数は六〇名を越えることは普通であり、七〇名、まれには八〇名のこともあり、しかも複式であった。
 
 ウ 不就学児童に対しては、特に心を用い、就学歩合を前進させるため学校設立以来努力して来たところである。また、出席歩合については、九〇%以上を目標としていたようであるが、八〇%代が多く、大正四年および同十年は九〇%を越していた。農繁期には休業の措置もあったが、家事の手伝い、子守など児童の欠席の多いのは、当時としてはやむを得ない姿であったと考えられる。
 大正七年の亀田村状況報告に対して渡島支庁長が、「学齢児童の出席は向上しつつあるも五月以来低下の傾向あり支庁においては出席歩合の標準百に対する九〇%なり。少なくとも其程度に達する如く努力する所なかるべからず。其の目的を達成せんとせば、先ず以て村内に模範部落を作り力を之に集注し成績佳良ならしめ、然して漸次是を他に及ぼすべく施措を要す。」と講評しているように、出席歩合向上については特に努力していた。しかし、九〇%という目標達成は容易なことでなかった。
 
 エ 高等科は授業料を納入することになっていた。大正四年の授業料の収入額は一六九円であって、教育費総額五、二四四円に対してはわずか三%余であるが、義務教育でないため、授業料の徴収は止むを得ないことであった。高等科に入学する者の父母は、教育に理解があり比較的財力に余裕があったと思われるが、授業料未納の年度もあって、大正八年度一〇〇%の記録があるに過ぎない。
 
 オ 大正の初期(二、三、四年度)の教育予算は五、一〇〇円ないし五、五〇〇円であり、村の総予算に対して四四%余ないし五四・四%余におよび、教育費の占める割合は極めて大きかった。もちろんその中には教員の給与費が多大であり、対教育費俸給歩合は六三%以上に達していたので、施設設備需用費は伸び悩んでいた。
 大正四年の亀田村の予算総額八、九三七円に対し、教育費の割合は六〇%で、一学級当り四一五円、児童一人当り六円二二銭であった。教員の給与費は三、六二九円で四〇%を占めており、教員の給与の割合がいかに大きかったかが明らかである。大正十年に至り、予算が増大して、教育費二八、〇〇〇余円、教員俸給九、七八〇余円となった。これは亀田小学校の二教室、廊下および赤川小学校の増築、教員住宅の増改築などのためと教員の俸給の引上げによるものであった。
 
 カ 明治以来就学を奨励しながらも、不就学の問題を完全に解決することは困難であった。父母の教育に対する関心度の問題、家計上の問題が主たる原因であり、就学しても前述のように欠席する子どもが多かった。
 
 キ 教員の研修については、資格の向上も考え、勉学の機会を与えることについて配慮していた。准教員、代用教員が比較的多い時代が続いていたので、研修の必要が強かった。特に亀田小学校が函館師範学校の代用附属となるにおよんで、師範学校との関係が親密となり、亀田村の教員の研修に対して、便宜を与えることが多くなった。
 
 ク 学校衛生については、保健教育の発達していなかったころであり、形式的に取扱われていたようである。もっとも前述のトラホーム患者の治療について努力したことは、医師教師共に熱心な実践と考えられる。昭和十年ころ、亀田小学校において、各教室に簡易な衛生設備をして、担任教師がトラホーム患者の治療に当ったこともあり、保健衛生教育に対する熱意は認められてもよいと思う。
 
 ケ 大正五年ころは学校医が委嘱されていなかった。学校医といっても、年に一度極めて簡単な検診を行う程度であった。
 
 コ 学務委員は小学校創設のころとちがって、村会議員五名、一般村民四名および教員一名によって構成された。昭和初期までは村会議員選出の委員が主体であり、各地域にわたって選出されていたので、各小学校長と連絡協力して教育の振興に尽力した。
 
 サ 亀田村の教育会は、大正六年度における会員数六七名、総費用歳入四一円、歳出四一円、他の町村教育会と合同して渡島教育会を作っていた。教育研究会は亀田村内各小学校教員をもって組織して、教育上の諸種の事項を研究した。
 教育会が監査を受けた点については、公的な予算によって事業を行ったためかと思われるが、現在のPTAあるいは保護者会などは支庁の監査の対象外であると思う。このように支庁長に対して報告したのは、一面組織の充実と活動の進展を期することになったとも考えられる。