消防組時代

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 (明治三十七年から昭和十四年までの三十六年間)明治三十八年(明治二十七年勅令消防組規則施行)、により組を合併して公立亀田村消防組を組織した。当時は戸数二一八戸、人口一、三〇八人で火災発生件数も年々増加の傾向にあったので、早くから消防組の必要性が叫ばれていた。
 明治三十八年五月寺島紋太郎を初代組頭とし、公立亀田村消防組を創設した。村役場に事務所を置き、ドイツ式腕用ポンプ三台を購入した。地域わりは、桔梗地区を第一部、鍛神地区を第二部、赤川地区を第三部とした。人員は前記の組頭一名、部長三名、小頭六名、消防夫六〇名 合計七〇名で発足したのが亀田消防のスタートであった。
 明治四十三年三月、更にドイツ式腕用ポンプ一台を購入し、本町地区に前記第一部の支部を設置し、戸数人口の増加に伴い消防夫の定員も七〇名から一〇九名と大幅増員し、消防力の強化を図った。
 当時の消防力は、消防夫定員一〇九名、消防器具置場は桔梗、鍛冶、赤川、本町の四か所で、火の見梯子(はしご)は前記四地区に二基ずつ計八基新設し、腕用ポンプ四台などであった。
 大正五年には戸数一、〇二九、人口六、一六三人と増大し、一連の都市化が推進されるに従って消防組も同年(別の記録では大正十一年)三部制を四部制に改めた。人員は組頭一名、部長四名、小頭八名、消防手一一三名 合計一二六名である。
 なお、同年消防夫の名称を消防手に改めた。
 大正十年ころは未墾地開墾などの火入れがあり、野火、山火事が多発し、消防組員も炎との戦いに苦労した。
 大正十四年ころは地域的にはまだ電燈がないところもあり、ランプ、たき火を使用していたので火災件数も多く、組頭をはじめ、組員苦難の時代といわれた。