亀田村の種子用馬鈴薯の生産はこののちも需要に見合って増産された。昭和三十五年から四十三年までの生産量をみると次のようになっている。(一俵は五〇キログラム入)
昭和三五年 七五(千俵) 昭和三六年 五〇(千俵)
昭和三八年 五八(千俵) 〃三九年 七三(〃)
〃四〇年 八六(〃) 〃四一年 五六(〃)
〃四二年 六〇(〃) 〃四三年 四七(〃)
四十年生産の八万六、〇〇〇俵は農家の栽培管理よろしく、検査合格品を多く出した事情によるものである。このように昭和二十三年以来、長く生産されてきた種子用馬鈴薯栽培をやめ、食用馬鈴薯専門栽培に転換することになったのが昭和四十三年からである。
一般食用馬鈴薯栽培への切替えとなった主な理由としては、次のことが挙げられる。
ア 一般消費者の要望から食用馬鈴薯の需要が増大してきた。
イ 種子用馬鈴薯栽培は技術上困難が多い、特に連続発生のアブラ虫の被害に対する防除対策が容易でなくなってきた(生産減退)。
ウ 種子用馬鈴薯栽培のための耕作畑、環境整備などがむずかしくなってきた。(労力、手間がかかり過ぎる)。
エ 農家経済面からしても、食用馬鈴薯一本化栽培へ切替えても生産が成立つとの見解。
かくして亀田町種子用男爵薯栽培に終止符が打たれ、一般食用馬鈴薯の生産増強に努力が続けられてきた。切替え後いまだ日は浅いが次のように生産量を上げた。
昭和四四年 一四万三、〇〇〇俵 昭和四五年 九万二、〇〇〇俵
昭和四六年 九万六、〇〇〇俵 〃四七年 一七万六、〇〇〇俵
(亀田農業協同組合の扱い分)
食用馬鈴薯の販路は、地元消費のほかは、関西、関東、北陸、仙台方面の大口需要地に出荷された。