この鉱山は亀田川の上流(赤川町の奥)に昭和十九年四月開山し、翌二十年から生産を開始した。二十二年五月から二十六年八月まで休山となり、九月に生産再開となったが六年間の営業を続け、三十二年十二月に閉山となった。生産品は褐鉄鉱で埋蔵量は当初六〇万トンと推定されたが、確定は三〇万トンであった。採掘方法は階段式露天掘りで閉山までの総生産量は二九万六、〇〇〇トンであった。
この間の従業員は当初約三〇名程度であったが再開後は五〇名にもなり、ほかに採掘請負組労務者二〇名も働き、鉱山は非常な活気をみせた。鉱石は山元から桔梗駅までの一二キロメートルをトラックで運搬し、貨車積みにして室蘭製鉄所に輸送した。このような鉱山であったが、埋蔵鉱量の少ない小規模鉱山で、しかも鉄分の低いいわゆる貧鉱石であり、かつ富鉱部は全部掘りつくしたので、ついに閉山するに至った。(初代所長鈴木庄衛資料)