港分校の沿革

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亀田小学校港分校

 亀田小学校港分校(函館市立港小学校の前身)は、戦後間もなく昭和二十二年十一月八日開校した。同校の沿革誌によって、その大要を記録する。
 
    亀田小学校港分校沿革誌
 「平和なる文化国家の再建は一に民主教育の運営にその根基を置くものであり、米国教育使節団の勧告に俟つまでもなく、自主的なる地方教育の振興こそその重要なる鍵をなすものである。近時亀田村港公区の飛躍的なる発展に伴い、戸数住民の急激なる増加は優に同区内に一校創立の余地あらしめるものであったが、村財政にては如何ともなし難き状況であった。然るに工場会社の建設、鉄道敷設の増加を始めとして、住民の転入は年を追って著しくなり、その上昇率は亀田村中最高を示し、産業経済共に当村の中心地帯は恰も港公区方面にあるが如き観を呈し来った。かくて従来同公区学童の通学校たる富岡所在の亀田小学校の位置は偏在するものとなり、殊に低学年児童の通学には距離上幾多の支障を感ずるに至った。あまつさえ二十教室所有の同校舎は六・三制実施によって、大半は二部授業の已むなきに至り、新たに同校港分校設置の要望は日に日に増すばかりであった。
 村議会議員佐藤銀作氏を始めとして、公区民の教育熱に加うるに港樺太引揚寮民の要請もあり、ここに初の民選村長佐々木善松氏以下当局の理解と、亀田小中学校長大沼保徳氏、同教頭柏崎賢次郎氏等の教職関係者の努力は一丸となり、その結実をみるに至ったものである。
 村財源より推して新校舎の設立は不可能であり、既存の建築物を利用改造すべく関係者の奔走の結果、漸く港公区二九四番地所在の旧網工場を買収し、改造工事費を村財源より仰ぐ外に新たに港分校設立後援会を設置し、同関係者の日夜を惜しまぬ努力と村民の絶大なる協力によって得た四十八万有余円の金額によって、その不足額を補い、道南土木建築株式会社によって昭和年二十二年十一月改造工事完了、開校の運びとなったものである。
 同二十四年四月一日、港公区方面の函館市併合による同校独立に至る約一か年四か月間中、学級数は六学級より八学級に増加し、施設教具等の不十分による幾多の支障をもよく克服し、三浦文太郎主任の温厚篤実なる学校経営の下に、教職員、児童、部落民共に融和協力し、港公区一円の教育振興に務めて来たものである。」