飛行場の真ん中の校舎

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 亀田中学校建設には他に類例のない曲折もあり、開校に至るまでには苦心が多かった。当時の事情については、同校初代柏崎校長が渡島中学校長会誌に載せた「飛行場の真ん中の校舎」と題した回想記によることにした。
 
  「 はじめに、(一部省略)
 『進駐軍の寛大な処置と関係当局並びに村民の教育愛に対し心から感謝申し上げる。』これは、開校式当日の学校要覧の第一行に書いたことばだった。私たちの学校は、奇しくも進駐軍と微妙な関係が生じ、約半年間、校舎を使用することができず、困り抜いて来たが、やっと開校式を挙げるようになり、その嬉しさは何にもまして大きかった。
  一 村議会で設立の決まった日
 『議長、十五番。』私は私の議席番号を叫んで立ち上がり、村理事者並びに議員諸君の協力に感謝した日、それは昭和二十三年一月十六日のことである。当時私は、亀田村議会議員を兼ねていたため、中学校独立校舎建築の議決は特に感銘が強かった。村有林を売り払って、新しい時代に新しい教育建設をしようというのである。そのころの村財政は貧しかった。敗戦後の混乱した経済事情では、むりもないことだったが、教育尊重の熱意によって、管内ではおそらく第一番の議決であったと思う。
 
  二 ようやく九分通り完成へ
 雪の消えるのを待って、基礎工事に取りかかったのが三月十八日だった。村議会から中学校工事建築委員を依頼された私は、毎日のように現場を訪れた。それは楽しいことだった。四月十七日、上棟式、とうとう飛行場の真ん中に中学校の骨組が出来上がり、工事は順調に進んだ。
 
  三 進駐軍から叱られる(工事中止命令)
 五月十五日付『亀田中学校長に補す』という辞令をいただき、渡島支庁長に新任のあいさつのため伺った日のことである。支庁長は不在だった。
 『先生、先生の学校のことで、先ほど支庁長さんと森田先生が進駐軍に呼ばれて行きましたよ。』と係がいう。何事かと不安な気持だったが、待ちくたびれて基坂を下り切ろうとしたところで、困惑した表情の岡支庁長と森田先生に出遭った。
 『とんでもないことになったよ。君、飛行場がまだ開放されていないのに、校舎を勝手に建てたといって恐しく叱られ、工事中止命令だ。大変なことになった。』
 新任のあいさつどころではない。あわてて支庁長室に集まり、対策について相談する。とりあえず明日敷地へ行ってみたり、公文書その他の書類、手違いの検討をすることになった。全く突然のことで、驚くだけだった。絶対者に等しい人たちの前で、岡支庁長と森田先生などが、ものすごい態度で叱られたという。在函の憲兵大尉と札幌から来函した少佐が、なぜ占領している飛行場の真ん中に学校を建てたか、無断で建築した理由を述べよと詰問したというのである。支庁長は飛行場は開放されているものと思っていたので、答えることができず全く困ったという。
 後日判明したことであるが、公文書の受領先が函館市長(函館飛行場と称していた)であったこと、進駐軍から口頭で開放を見合わせる旨の申し入れがあったこと、村では直接札幌財務局を訪ねて、開放された旨の公文書(函館市長宛)を写して帰り、口頭で申し入れてあったことを知らずにいたことなどの手違いから、大事件に発展した。
 
  四 許可の日 十月十五日(日記から)
 『ああ、ついに祝報来たる。隠忍五か月にしてこの光りを見る。新しい誕生日というべきであろうか。長い間、ほんとうに長い間、苦悩の日を送って来たが、とうとう学校使用許可の報告を受ける。村議会を中座して教官会議に出席していたところへこの快報、思わず万歳を叫ぶ。先生方の明るい顔、顔、顔。
 青空、すみきった秋の空、実りの秋、自然も人もすべてありがたい。再び議会に出席、協力に謝意を表して帰宅、出札してお礼廻りをする予定を変更し、ゆっくり妻と語る。』和訳した許可書には、
 『今後本施設を使用し又は建設することは、将来施設を飛行場として使用せざることを条件とする。連合軍は将来飛行場としての施設が残存している場合にはこれを破壊する権利を留保する。』とあった。
 生徒たちは大喜びだった。苦難の人生、三月残雪の真ん中に私たちの中学校の将来を思った時から、八か月も去って、その間喜びと苦しみが大きく波打っていたのである。しかも、誰もが経験することのない苦汁が私たちを取り囲んでいたが、それも消え去って生徒も教職員も喜び勇んで開校式の準備にがんばってくれた。苦しみが大きければ大きいほど、喜びがまた大きいという、そのことば通りに。」