イ 亀田村字赤川飛行場の利用についての打合摘録(マーザート少佐、ウェイリー大尉と支庁長森田主事ら二三・五・二八)
ウ 亀田村字赤川旧陸軍函館飛行場開放後の措置について(二三・五・二六)
エ 在亀田村字赤川飛行場の開放に関する文書について(二三・五・二六)
オ 新制中学校敷地として旧陸軍飛行場使用方につき陳情(村長→文部大臣 二三・八・一六)
カ 旧函館飛行場敷地に六・三制中学校校舎建築について(村長→札幌財務局 二三・六・一三)
外八冊
以上の書類を通じて、当時の関係者、わけても村長の苦悩を推察できると思う。村長を中心として、長期にわたり、各機関の了解に努力し、ついに中学校建築の許可を得たのであった。戦後の教育は亀田村の場合、進駐軍と話し会いによる解決を果たして出発した。これは国内において例のないことであり、亀田中学校は飛行場跡に誕生し、平和のための飛躍台となったといえる。
飛行場跡は再び水田となり、三転して宅地となり、はるかなる緑の岡辺は消えて、家並が続き、産業道路が東西を貫き、車の流れのあふれる街に変容した。
亀田中学校開校式の日
亀田中学校は道南一、全道的にも有数のマンモス中学校となり、生徒収容の限界を越えたので、本通地区に校地を取得し、近く新設中学校設置の予定である。