中の沢分校の誕生

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桔梗小学校中の沢分校

 子どもたちは遠路を桔梗小学校まで歩いたが、通学に困る状態であった。入植者の多くは教養が高く、教育に関心が大きかったので、まず桔梗小学校の分校設置のことを考え、その実現に努力することになった。
 (『開校二十周年記念誌』昭和四十五年)の中から、学校設立の経過などを抜き書きして中の沢分校の大要を知ることにしたい。
 
    開校二十周年記念誌から(一部省略)
 「 一 建設の運動(前略)私達が当地に入植して先ず計画したのは、電気導入と学校の建設であった。同二十二年十月先ず電灯が点った。同じこの年、中の沢、三軒家、駅前の三か所から分教場設置の嘆願書が役場に出された。
 翌二十三年五月、桔梗中の沢開拓農協が設立され、戦後開拓の諸施策は、すべて開拓農協を通じて行われることになった。たまたま国庫補助によって、開拓地の小学校建設が実施されることになり、同二十四年組合総会の決議を得て中の沢地区に誘置することとし、本格的運動を展開した。(後略)
 
   二 建設
  (前略)建設は真夏の炎天下に行われた。地盤は石が多く作業は困難を極めた。入植五年目私達はまだ食べるだけでも大変という時期であったが、子供の教育のためと、全員が作業部長の山中氏の指示のもとに、玉石は川から、材料は七重浜の製材所から運び、敷地を整地し、基礎コンクリートを打ち、柱を立て板を打った。この様にして労力共々四十万円の自己負担をした。二十四年九月五日、七飯町藤城小学校より石倉捨蔵先生を迎え、関係者参集して、桔梗小学校たたら沢分校(一学級編制、児童数一年生から三年生まで男十名女二名計十二名)落成開校の祝賀会が開催された。当日は中の沢神社祭典の日でもあった。
 二十六年五月十九日、桔梗小学校中の沢分校と改称した。
 
   三 増築
 児童も漸増して来ると共に増築の気運が高まった。三十二年に至り、六年生まで収容の独立校を目標に運動を展開することがPTA総会で決議された。同年十二月村議会において増築の件を可決した。
 工事費一五〇万円、補助金一二〇万円、町費三〇万円で三十二年末着工、三十三年三月完成した。普通教室と特別教室を含め、建坪五〇坪を増築、児童は六年生まで収容された。
 三十三年四月一日、二学級編成(一年生より六年生まで男二八名女三六名計六四名)となった。
 
   四 独立校昇格と屋体建設
 昭和三十五年初代分校主任石倉先生が退職、桔梗小学校から、二問三郎先生を迎えた。このころよりようやく独立校昇格の気運が内外共に高まって来た。三十九年四月三学級となり、四十二年分校主任芹田幸一先生、PTA会長松尾正義氏の時に至り、独立校昇格が強力に具体化し実現することになった。
 同年四月、西大沼小学校より中山強校長、松前町小島小学校より立花清教頭を迎え、亀田町立中の沢小学校として新発足した。
 同年五月二日、独立校記念式典を盛大に挙行、開校以来一七年の歩みを偲ぶと共に前途を祝福し合った。
 PTAでは独立校を記念して、環境整備事業を計画し、学校花壇を設置した。中央の池には噴水が吹き上げ、ふなや金魚が遊び、花壇には四季とりどりの花が咲き乱れ、児童の情操教育とともに外来者の目を楽しませている。また、道立函館職業訓練校の協力により、花壇の棚や各運動器具なども校庭に設置された。
 屋体の建設については、四十三年には町財政の都合で延期され、校長住宅の新築と職員室の改造に終ったが、翌四十四年秋着工、年末に竣工した。
 同年校章を制定した。
 
   五 その後
 四五年二月 体育館落成記念式典挙行
 四五年四月 二代校長佐々木次郎着任
 同年 七月 同窓会設立
 同年 九月 開校二十周年記念式典並びに祝賀会挙行」