昭和三十九年三月十二日、嵯峨教育長が町議会において、「第一に小学校関係の問題でありますが、当町の人口増加の状態につきましては、町長より再三ご発表のあったとおりでありまして、これに比例し児童生徒の増加は驚く程の高率を示しております。昭和三十八年五月一日から現在まで小学校八九名、中学校三三名増加しております。これは年間の増加数で、学年更新時の増加数を加えると異状とも思われる増加で、この比率をもって進むならば、当然この増加地域の児童を収容している亀田小学校の膨張を余儀なくされるわけですが、同校はすでにその収容力が限界点に達しており、校地面積などよりしても、これ以上教室の増築は不可能の状態であります。また、文部省は小学校の理想学級を一八学級程度としており、三十九年四月現在見込みで三六学級、児童一、七二〇人というマンモス学校となっております。しかも同校の周囲は、ご承知のとおり三方面は一般住宅で囲まれている関係上、一朝天災地変などを想像しました時、非常な危険を感ずるのでありまして、まずもってこれ以上のマンモス化を防ぐことが先決であるとの見地から、教育委員会は適当な箇所に新小学校を設立する計画に踏み切った次第であります。本年度の計画といたしましては、六教室を適当な箇所に新設し、一部通学区域の変更を実施したい意向でございますが、この問題につきましても、学校教育審議会を中心に関係者とも十分協議をし、通学区域問題を含めて万全を期したいと存じております。」と、新設小学校の構想を発表し、適当な箇所として昭和町四四一番地を選び建設することになった。