マンモス小学校の代表

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昭和小学校

 マンモス小学校の代表的な学校として、亀田市の象徴的存在となった昭和小学校は、児童数の増加があまりにも激しかった。開校当時は田んぼの真ん中にぽつんと建った小さな学校で、こんな所にと思ったほどであったが、都市化の波が、またたく間に昭和小学校を包んでしまった。
 増築に追われ、来る年も来る年もゆとりのできる暇がなく、三〇学級を越えてしまった。一八学級を目標として開校した当時の計画は、あまりにも短時間に消滅して、その対策に戸惑う状態が続いた。ただこの巨大な学校が、児童、教師、父母の三者一体となって醸し出した教育効果には驚嘆すべきことが多い。マンモス学校の欠点を大きく取り上げることが常識化されているが、昭和小学校の現況は、むしろ大きな力を誇っているかのような感じさえ覚える。しかし、それは苦しい理事者の立場を援護するためでもなく、また、昭和小学校の大きな努力におんぶしようというわけでもない。激しい児童増のため、不十分な施設の中での学校経営は大変であったと思う。
 忘れ難いことは、昭和四十八年度における増築のことである。マンモス化した昭和小学校の増築を認めようとしない北海道教育委員会と文部省に対し、関係各位の熱烈な努力によって、六教室(特別教室二を含む)の増築認可を得たことだった。それが三階建校舎となって、昭和小学校の教育を盛り立てているかのようである。