亀田小学校
一 港地域合併後
昭和二十四年四月、港分校は函館市に合併したので、その地域は亀田小学校から離れることになった。しかし、桐花中学校を併置していたので、教室は余裕がなかった。
三十二年には一、〇〇〇人を超え、三十六年は一、四九五人と急激な増加となった。社会増がいちじるしく、特に本町、富岡方面はまたたく間に住宅が密集し、いも畑に囲まれていた昔の面影は完全に消え去っていた。
二十八年から増築を行い、東側および西側の教室は二階建となり、またグランド寄りにはブロック造りの校舎が完成した。三六学級のマンモス小学校となったので、昭和分校を設け、四十年四月、新設の昭和小学校に児童を移送したが、依然として一、〇〇〇人を越える大規模な小学校である。
二 研究の歩み(要項)
亀田小学校は伝統的に教育の研究実践において有名であるが、戦後も新たな研究主題によって、その研究の実際を全道的に公開した。
研究の歩みは次のとおりである。
昭和二四年 第一次公開「わたしたちの教育課程(第一次試案)」
〃 二六年 第二次公開「わたしたちの教育課程(第二次試案)」
〃 三〇年 第三次公開「自由性を育てる教育の実践」
〃 三六年 第四次公開「子どもの生活を高める教育」
〃 四〇年 第五次公開「子どもに力をつける教育実践」
〃 四一年 北海道道徳教育研究大会「道徳教育の計画とその実践」
昭和四二年 文部省より道徳教育研究校として指定を受ける
〃 四三年 第六次公開「主体的、創造的な子どもの育成」道徳教育研究発表大会
〃 四四年 第七次公開「子どもが主体的、創造的に学習をすすめるノート・小集団学習・コミュニケーション」「子どもが主体性、創造性を高める全校朝の会実践活動」
〃 四五年 第八次公開「子どもの主体性、創造性を育てるノート・小集団学習・コミュニケーション」
後者は前年度と同じ
〃 四六年 第九次公開「ひとりひとりの子どもの主体性、創造性を育てる実践」
(子どもの見方、考え方、感じ方を高める授業、子どものふれあいを深める全校朝の会、実践活動)
〃 四七年 第一〇次公開「ひとりひとりの子どもの主体性、創造性を育てる実践」(子どもの見方、考え方、感じ方を高める授業、子どものふれあいを深める特別活動)
〃 四八年 第一一次公開 前年度とほぼ同じ
三 亀田小学校の評価 次に同校の視察者による評価を掲げる。
「(前略)亀田小の場合、長い歴史の上にたったものである。“毎年、ベテラン教師が去って、新しい教師がいれかわる。この変動の中で、本校の歴史的伝統を維持発展することは、大きな負担であるが、先生方には、心から感謝している。”研究同人誌『合流』の校長の文章の一節である。昭和二十四年に第一次の公開を実施してから、本年度第一〇次の公開実施まで、先人の遺業を受けつぎ、四〇名の職員が一丸となってひたすら実践にうちこんでいる姿はりっぱだった。」
(旭川市立学校教員道内教育視察報告―四七・一二―の中、亀田小学校の参観の部より抜粋)
四 歴代学校長(明治三十四年以降)
歴 代 氏 名 就任年月日 在職期間
第一代 信太延之助 明治三四年 四月 一日 三年八月
第二代 高田 孫七 〃 三七年一二月二六日 三年六月
第三代 宗像 良治 〃 四一年 九月 八日 四年一〇月
第四代 塩谷 国明 大正 二年 九月一五日 一年三月
第五代 小木保太郎 〃 三年一二月 三年
第六代 今川 博象 〃 六年 四月 一日 三年一月
第七代 達子 勝蔵 〃 九年 六月 六月
第八代 氏家丑次郎 〃 一〇年 三月一一日 一年七月
歴 代 氏 名 就任年月日 在職期間
第九代 武石 光喜 大正一一年一一月三〇日 七年一月
第一〇代 斎藤 豊蔵 昭和 五年 九月三〇日 七年一〇月
第一一代 浜口 一 〃 一三年一〇月一八日 二年一〇月
第一二代 大沼 保徳 〃 一六年 八月三一日 一五年七月
(北海道教育功績者として表彰される)
第一三代 林 堅二 〃 三二年 四月一六日 八年一月
(文部大臣より表彰される)
第一四代 吉田市太郎 〃 四〇年 五月 一日 五年一一月
(北海道教育功績者として表彰される)
第一五代 小山 政行 〃 四六年 四月 一日
(文部大臣より表彰される)