非常備団員の平常訓練の大要は以上述べたように、機械器具操作訓練をはじめとして、春秋消防演練大会を開催し、時宜によっては非常召集訓練、模擬火災訓練なども実施して、団員の素質の向上を図りつつ、常に非常事態発生に備えて警備の万全を期してきたところであるが、一方、外部における非常災害時の応援出動にも目ざましい活動のあったことを見逃すことはできない。昭和四年六月の駒ケ岳噴火および昭和九年三月の函館大火に際しての救援出動の状況については、すでに第四章第一一節で述べたとおりであるが、このほか外部応援に出動した状況を幾つか記録してみることにする。
一 亀田飛行場建設産業出動
昭和十九年第二次世界大戦も戦局たけなわのころ、当村の若人も前線に出動し、留守部隊として数少ない警防団員が、一致協力、消防警備に当ったのであるが、この途中において、軍司令部より軍用機専用亀田飛行場建設のため、警防団産業出動命令が下り、当時小柳忠蔵警防団長を産業隊長として、函館重砲隊稲妻連隊の指揮下に入った。全団員一致協力、連日連夜滑走路建設に、格納庫建設にも汗を流しての出動であったが、その精励振りは当時の軍司令部より高く評価された。
二 台風十五号海難応援
昭和二十九年九月二十六日、台風十五号の襲来には、当村では火災警報発令と同時に全団員を非常召集し、警戒体制をしき、警備の万全を期した。停電して通信網が不通の夜半過ぎ、国鉄青函連絡船洞爺丸遭難救援依頼の通報を受けた。直ちに現場に近い第四、五分団員七五名が応援救助隊として上磯町七重浜に急行した。
暗黒怒涛さかまく烈風の中で、献身的な人命救助と遺体収容活動は、日ごろ訓練の手腕を遺憾なく発揮してその功労は高く評価された。
三 森町大火災応援
昭和三十六年十月二十三日午後十一時過ぎ、森町字本町駅前マーケット内飲食店より出火の火災は、瞬時にして延焼拡大していった。間もなく森町大火の報に接した当町警防団は、直ちに消防ポンプ自動車二台と団員六〇名を非常召集して森町大火応援隊を編成し、小柳団長自ら陣頭指揮に当り、深夜森町へ急行した。現場到着時には商店街、飲食店街、住宅密集地帯は火炎がますます拡大しつつあった。
当町応援部隊は国道五号線を延焼阻止線として、部下団員は危険住宅街の破壊活動に戦うこと七時間、悪戦苦闘の末、延焼阻止に成功し、多大の貢献を成し遂げたことは、当町消防の名誉を発揮するとともに、森町民からも深く感謝の辞を受けた。(市消防団本部沿革記録から抜粋)