昭和十二年三月、函館市は市会において、湯川町合併のため委員会を設置し、湯川町と協議を進め、十四年四月、合併が実現した。その間、一方において亀田村との合併を計画し、十三年三月二十八日合併協議会第一回の会合を開催した。
その模様を『函館日日新聞』 (昭和一三年三月三〇日)は次のように報じた。
「亀田村合併 円満進捗す
昨日初会合の結果
亀田村の合併協議会第一回会合は前報の如く二十八日正午より相生町五島軒において午餐を共にして開かれたが、市側弥吉市長代理、当作収入役、恩賀合併委員長の三氏、亀田村側は坪山村長及び小委員四名に書記一名の六名で種々懇談するところあり、村側としては合併そのことは何等異存なきも合併後農村を特殊扱いにされる懸念あり且合併後の負担加重を憂慮し居るものの如く此完全なる保証さえつけば、寧ろこの際亀田全村あげて市に合併するを得策となす意向を有している模様であり亀田側はすでに市側の申出でに対し慎重の態度を以て臨み、三十四名の村議及び公民より成る大規模の委員会を組織し、しかして市側との直接交渉に当るべく五名の小委員を設けたが、委員工藤一氏死去により現在小委員四名となり昨日の会議に右小委員全員出席したものであるが、協議の結果亀田側の合併に対する真意条件を前提とするので、何れ全委員会を開催協議の上右合併条件を決定し然る上再会すべし、ということになって同三時散会したが、随って第二回会合は亀田側の態度決定後となるので時日未定であるが、合併後の負担並に農村に対する特殊扱いの如き態度に出でざるべく市側において十分の誠意を示しているので右合併問題は案外速かに円満に進捗することになるのではないかと見られ湯の川合併に先だちて実現すべく、有望視されている。」
これを受けて、同年四月十九日の記事では、
「函館市と亀田村の合併が意外に円満に進展しているので、湯川町も大勢合併有利に傾き、今月末が双方の委員会会合となろう。」更に同月二十九日には次のように報じた。
「亀田村にてはさきに三十名の委員をあげて函館市との合併問題に関し調査研究中であったが二十六日午後二時より右委員会を役場において開会、殆ど全員出席して種々協議の結果、内地における都会の合併調査その他函館市との交渉等一切を村長指名十名の調査委員をあげて一任することとなった。
照井兵之助 小熊亀蔵 横田与平 本谷勝太郎 横川毅夫 佐々木久松 桜田浅蔵 小林 清 佐藤末蔵 内田由太郎」
しかし、最初は円満に進み、合併可能と考えられていたものの、調査研究を重ねているうちに、湯川町との合併が実現したが、それによって合併を促進されることもなく、村民は比較的合併問題に関心が薄く、急速な合併を望む声が盛り上がることもなかった。
更に湯川町合併の結果をみてからでもという考え方もあり、農村的立場から、都市との合併に消極的な村民も多く、初めの空気とは違って、市村合併は時期尚早であったと思われる。