昭和十六年二月、函館市会に「隣接町村合併調査委員会」を設置し、亀田村に対し一部合併(都市計画区域の合併)を申し入れたが、第二次世界大戦が始まり、合併問題は休止状態となった。
同十八年七月五日の北海道新聞によれば、登坂市長が「大函館建設への新構想として、隣接町村の合併を要請」と記されている。当時函館市政協議会では、隣接町村の合併は函館市の総力を挙げて戦力増強に寄与する見地から、緊急かつ重要問題として取り上げていた。
同年八月、上磯、亀田、銭亀沢、大野各関係町村長と懇談会を開き、合併について了解を求めた。登坂市長は同月二十六日、市政協議会において交渉経過につき、「四町村長および渡島支庁長も出席して懇談したこと。合併の目的は一に戦力の増強に重点を置き、その点ではみな賛成であること。合併の時期は市町村にとって重大な問題であるため、幾回も相談を重ねる必要があること。」などを報告した。
同年九月、函館市会に「亀田村地区合併調査委員会」が設立された。それを受けて十九年三月、亀田村会でも「合併委員会」を設け、四月には両市村合併委員の合同懇談会を開催し、十月には函館市長、委員長名で亀田村長に対し合併条件を提示した。
しかし、軌道に乗るかにみえた合併問題も、戦争が長期化するとともにはかどらず、また、十九年二月、近江村長の応召により、代わって樋口藤吉が村長に就任した。
二十一年七月、亀田村民有志は自発的に「亀田函館合併期成同盟会」を結成して、村当局に対し合併促進を要望することになった。運動方法は演説会その他による大衆運動を主目的とし、更に部落会単位に合併の賛否投票を実施し、その結果を村会に反映させることなどを計画していた。
同年八月二十日、亀田国民学校において、函館市亀田村合併協議会を開催した。亀田側より村会議員、各部落会、実行組合幹部ら約三〇名、函館市側より坂本市長、吉谷助役、市会議員が出席し、市長から合併促進を強調、村側は賛否両論の意見が対立して一致しなかったが、反対派が幾分軟化した感があった。
更に九月には、函館市長から亀田村長に対し、亀田村港、本町、中道、本通、鍛治、昭和地区の編入要望書を手交して、積極的に合併について働きかけた。
樋口藤吉村長は同年十一月退職し、戦後初の民選村長の誕生(二十二年四月、佐々木善松)を迎えるまでは、伊藤甚一郎助役が村長職務を代行した。