昭和三十九年になると、函館市議会、銭亀沢村議会とも合併調査特別委員会を設置して諸問題を検討していくことで合意し、それぞれ調査委員会を議会内に設置した。銭亀沢村の調査委員会は、委員長が本間新、副委員長木村国太郎、武井安郎兵衛で、函館市の調査委員会の委員長が梅崎親夫、副委員長が出町国市、鈴木広経であった。銭亀沢村の委員は、班を編制して道内外の既合併都市調査をおこなった。
このような中で昭和三十九年九月から十一月にかけて村内の各種団体からの要望の取りまとめがおこなわれた。部落会(鶴野、古川町、豊原、中野、銭亀、志海苔、石崎)、学校PTA関係、商工会、漁業協同組合、婦人団体協議会、社会福祉協議会など多くの団体から要望が出された。その上で昭和四十年九月に村の「地域振興計画(銭亀沢村振興5か年計画)」が作られ、この計画の大要を函館市議会が了承し、市村合併協議会の設置について函館市から申し入れがあった。
銭亀沢村は、翌四十一年一月、一〇会場で部落懇談会を開催し、合併内容の説明をおこない、理解と賛成を求めた。総世帯数一七三六世帯中五九〇世帯(三四パーセント)が参加したこの懇談会では、半数以上の会場で、時期尚早という意見が多く、住民投票などもっと民意を反映した形での合併を望むというものであった。