石倉貝塚の特異性

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 縄文時代後期における集落跡が確認された例は少なく、一般的には小規模で分散する傾向にあるとみられている。この中で、平成六年度から調査された石倉貝塚(『石倉貝塚Ⅰ~Ⅲ』函館市教育委員会一九九五~一九九七)は、貝塚形成に関連する住居などの存在が考えられていたが、実際にはほとんど生活を営んでいた跡は見当たらず、何か特異な場所であった可能性が高くなっている。津軽海峡へ注ぐ小河川のムジナ川の最上流部に位置している遺跡の中央部は、削平された広場的な空間となり、その周囲には大小数百個に及ぶ配石遺構が巡らされている。さらに外側には数千個に及ぶ柱穴群が集中して配列し、また墓とみられる土壙も存在する。一番外側は内部を造成した際の盛土の堆積があり、この中に使用された土器・石器および貝層などが大量に含まれている。土器では、縄文時代後期初頭頃の十腰内Ⅰ式土器を主体とするもので、壷形、甕形、深鉢形など各種の器形がみられる。この中には壷形土器に小児骨を入れた甕棺(かめかん)と思われるものも存在する。

図1・2・6 縄文時代前期の土器 図1・2・7 縄文時代中期の土器

(北海道埋蔵文化財センター『中野A遺跡』『石川1遺跡』『桔梗2遺跡』、函館市教育委員会『豊原1遺跡』『函館空港第4地点・中野遺跡』『権現台場遺跡』より)
 

石倉貝塚の配石遺構


壺形土器の甕棺(石倉貝塚出土)

 なお、貝層はほとんどが破砕された状態にあり、どうやら通常の集落に伴う貝塚とは異なる性格であった可能性が高い。
 これらのことから、石倉貝塚は墓地や祭祀関係の場、あるいは何らかの集合広場など、様々な用途が考えられるが、まだ特定することはできない。また、周辺には石組炉の存在はみられるものの、集落跡を示す住居などはほとんど確認できない。このような特異な遺構は、土器型式からみておよそ一〇〇年から一五〇年ほどの期間にわたって継続されていたものと考えられる。しかしながら、これに関連する人びとの集落がどこに形成され、どの程度の規模であったのかなど、解明されていないことも多い。